管理人の食卓風景と日常の日記
この日記は初七日の法要を終えて、ひと段落ついてから書いています。
昨日の今日でも朝寝坊は許されません。
初七日までは毎日僧侶がお経をあげに来てくれるそうなので、今朝も早めに起き出して身支度を整えました。
昨夜も母を別室で寝せて、私と奥さんは居間でゴロ寝。
カーペットに枕を置いただけで寝てますから、いい加減体中がバリバリになって痛くてね;
朝の読経を済ませ、弟がやって来て、とりあえず2軒だけ挨拶に行くと言うので、弟の車でまずは酒屋へ寄りお礼にと日本酒を買い、葬儀委員長を務めてくれた方の元へ行きました。
個人店舗で商売されている方なので、直接店の方に伺ったんですが、私は濃紺のスーツに濃紺のネクタイで行きましたけど、後の3人は私服ってどういう事?
弟も奥さんも車の中で待機して挨拶には行かないからと言っていたのに、結局一緒に付いてきたんですよね。
だったら初めからそれなりの恰好しろって話でしょ(怒)
もう1軒、会計の責任者を務めてくれた方の所へ行き、こちらには昨日引き出物として用意したお菓子を持って挨拶し、今日の用事はおしまい。
昼食を摂ろうと言う事になり、どこにするか迷った挙句、生前父と弟が仕事中によく行っていたラーメン屋へ行く事になりました。
実はこのラーメン屋、私の職場の隣のラーメン屋で、私が独身の頃はほぼ毎日昼食のために通い詰めていた店でした。
最近でも年に数回、奥さんと2人で来る事があり、先日も来ていました。
弟と父がこの店に来ていたなんて、1度も聞いた事がなかった;
当然、車は私の職場の駐車場に停め、先に注文だけしておいてもらい、私と奥さんは一旦自宅に戻って、私はスーツから普段着に着替え、奥さんは必要な物を持ってラーメン屋に戻りました。
ラーメン屋に入ると、どこかで見たことがある男性がラーメンを食べているのが見えました。
よく見ると!当院の中堅ドクターが私服のTシャツ姿で、汗をかきながらラーメンをすすっていたんです。
医師と言えどもラーメンくらい食べてもおかしくありませんからそれは良いんですけど、会ってしまったからには会葬参列とお花を頂いたご挨拶をしなければと思いましたが、まあ食べ終わるまで待とうと。
私達も食べ終わり、実家に戻るため駐車場へ行くと、車の横に何やらビニール袋が置いてある。
何だろうと様子をうかがうと、個人名が透けて見えました。
これって、当院の入院患者のものだ!
それを持って詰所へ行くと、また挨拶とか状況報告とか長くなりそうだったので、見なかった事にして車を出しました;
(後で分かった事ですが、この入院患者、昨夜にお亡くなりになっていて、遺族が持ち帰る荷物の一部を車に積み忘れて行ってしまったそうです)
実家に戻って一息つき、弟も帰ってまた4人暮らし。
今日はもうすることがないと、持参した携帯ゲームで遊んで、夜を迎えました。
「朝食」
・サンドイッチ
「昼食」(ラーメン屋)
・あんかけ焼きそば大盛り
「夕食」
・仕出し弁当の中のおかずの残り
・焼酎のウーロン茶割り
昨日の今日でも朝寝坊は許されません。
初七日までは毎日僧侶がお経をあげに来てくれるそうなので、今朝も早めに起き出して身支度を整えました。
昨夜も母を別室で寝せて、私と奥さんは居間でゴロ寝。
カーペットに枕を置いただけで寝てますから、いい加減体中がバリバリになって痛くてね;
朝の読経を済ませ、弟がやって来て、とりあえず2軒だけ挨拶に行くと言うので、弟の車でまずは酒屋へ寄りお礼にと日本酒を買い、葬儀委員長を務めてくれた方の元へ行きました。
個人店舗で商売されている方なので、直接店の方に伺ったんですが、私は濃紺のスーツに濃紺のネクタイで行きましたけど、後の3人は私服ってどういう事?
弟も奥さんも車の中で待機して挨拶には行かないからと言っていたのに、結局一緒に付いてきたんですよね。
だったら初めからそれなりの恰好しろって話でしょ(怒)
もう1軒、会計の責任者を務めてくれた方の所へ行き、こちらには昨日引き出物として用意したお菓子を持って挨拶し、今日の用事はおしまい。
昼食を摂ろうと言う事になり、どこにするか迷った挙句、生前父と弟が仕事中によく行っていたラーメン屋へ行く事になりました。
実はこのラーメン屋、私の職場の隣のラーメン屋で、私が独身の頃はほぼ毎日昼食のために通い詰めていた店でした。
最近でも年に数回、奥さんと2人で来る事があり、先日も来ていました。
弟と父がこの店に来ていたなんて、1度も聞いた事がなかった;
当然、車は私の職場の駐車場に停め、先に注文だけしておいてもらい、私と奥さんは一旦自宅に戻って、私はスーツから普段着に着替え、奥さんは必要な物を持ってラーメン屋に戻りました。
ラーメン屋に入ると、どこかで見たことがある男性がラーメンを食べているのが見えました。
よく見ると!当院の中堅ドクターが私服のTシャツ姿で、汗をかきながらラーメンをすすっていたんです。
医師と言えどもラーメンくらい食べてもおかしくありませんからそれは良いんですけど、会ってしまったからには会葬参列とお花を頂いたご挨拶をしなければと思いましたが、まあ食べ終わるまで待とうと。
私達も食べ終わり、実家に戻るため駐車場へ行くと、車の横に何やらビニール袋が置いてある。
何だろうと様子をうかがうと、個人名が透けて見えました。
これって、当院の入院患者のものだ!
それを持って詰所へ行くと、また挨拶とか状況報告とか長くなりそうだったので、見なかった事にして車を出しました;
(後で分かった事ですが、この入院患者、昨夜にお亡くなりになっていて、遺族が持ち帰る荷物の一部を車に積み忘れて行ってしまったそうです)
実家に戻って一息つき、弟も帰ってまた4人暮らし。
今日はもうすることがないと、持参した携帯ゲームで遊んで、夜を迎えました。
「朝食」
・サンドイッチ
「昼食」(ラーメン屋)
・あんかけ焼きそば大盛り
「夕食」
・仕出し弁当の中のおかずの残り
・焼酎のウーロン茶割り
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この日記は初七日の法要を終えて、ひと段落ついてから書いています。
今朝起きたと言うか、話し声で目が覚めたのは僧侶がお勤めをする時間でしたから、午前6時頃でしたか。
ほとんど寝てないせいもあって、まったく酒も醒めてない状態。
それでも無様な姿は見せられないと、さっさと髭を剃り喪服に着替えて、しばらくボーっとしていたところ、朝食の準備ができたと言う事なので、席に着いて何とか胃に流し込んだ。
葬儀・告別式は午前10時から。
それまでは何もすることがないので、奥さんと同じ寺に納骨されている友人の元を訪れたり、あっちうろうろこっちちょろちょろ。
しばらくすると葬儀社の担当者に呼ばれ、事務引き継ぎをすると。
午前10時、平日の忙しい中を多くの弔問客が見えられ、昨日と同じ僧侶3名の読経で葬儀・告別式が開始。
最後の葬儀委員長挨拶の際、参列者の前に立った母・私・弟。
葬儀委員長が挨拶している最中、母が私の方へ寄ってきたので邪魔なのかと私も場所をずらしたら、母が倒れそうと。
慌てて抱きかかえ、目の前に座っていた奥さんに椅子を持って来させ、すぐに座らせて事なきを得ました。
いよいよ出棺となり、最後の対面では母が父の元から離れられず、葬儀社の担当者から引き離されてしまった。
もう後1分位とも思いましたが、キリもないですし・・・、ここは涙を飲んで・・・。
棺に最後の釘が打たれ、もう生身の父には触る事は出来ない。
霊柩車には父と母、私達は葬儀社のマイクロバスで、市葬斎場(火葬場)へ。
時間的に混雑していたため、なかなか場内に入れませんでしたが、順番が来て棺が車から降ろされ、火葬炉前で最後のお別れ。
と言っても、この時に棺のふたが開けられる事はなく、今までドライアイスを乗せられて散々冷やされた体が、今度はバーナーで超高温にされる炉内に入れられてしまった。
南無阿弥陀仏
時間はちょうど昼時。
付き添って来ていた親戚や父の知人に控室で仕出し弁当が振る舞われましたが、酒が醒めきってなかった私はパス、着物で締め付けられていた奥さんもパス。
待合ロビーの椅子に座って待っていましたが、約1時間半ほどして係の人が迎えに来ました。
収骨室へ移動し、父との対面は、まだ熱い台車に載せられたお骨となっていました(お骨あげ)。
1片も残さないよう、熱さにめまいがしながらも箸で拾い集め、係員が炉ぼうきとちりとりで砕けたすべてを拾い集めてお骨入に収め、蓋をしめるとグシャッという砕けた音が響いた。
喉仏と残った歯は、私達が収骨する前に別に取り置いてあり、最後にそれを確認して終了しました。
喉仏は母が、それ以外の遺骨は私が、遺影は弟が持ってバスに乗り込み、お寺の会場へ戻り、まずは会場使用料や僧侶の日当、お布施などもろもろを含めた代金の支払いを兼ねて僧侶の控室へ母と2人で行き、僧侶への挨拶と今後の予定の打ち合わせを行いました。
それが済み、すぐに還骨法要(骨あげ法要)が始まり、代表して喪主の母が挨拶をし、持ち帰り用に用意してあった料理と引き出物、お供えされた供物を分配した袋を全員に渡して、俗一般に言う「お葬式」が終了しました(忌中引き、精進落としと呼ばれるものは、最近はその場ではしません)。
まだ温かい遺骨を私が抱いて実家に戻ると、葬儀社の担当者や仕出し料理店の担当者が残った料理や香典返し、供えられた花などを実家まで運んでくれ、更に祭壇を綺麗に飾って父の遺骨が安置されました。
今日はこれですべてが終わり。
ある程度経つと弟も帰り、また母と私達夫婦、そして父の4人になりました。
またこの料理かと仕出しの料理を広げて食べて飲み、結構酔ってきたところで父の祭壇前に座り込んで、ひとしきり会話をして本当に久々に2人で酒を酌み交わして、ようやく本格的に涙しました。
「朝食」(仕出し)
・ごはん
・岩ノリの味噌汁
・焼鮭
・生玉子
・焼海苔
・いとこが持ってきた解禁日初競りのウニ
「夕食」(実家で)
・法要に付けた持ち帰り用料理
・焼酎のウーロン茶割り
今朝起きたと言うか、話し声で目が覚めたのは僧侶がお勤めをする時間でしたから、午前6時頃でしたか。
ほとんど寝てないせいもあって、まったく酒も醒めてない状態。
それでも無様な姿は見せられないと、さっさと髭を剃り喪服に着替えて、しばらくボーっとしていたところ、朝食の準備ができたと言う事なので、席に着いて何とか胃に流し込んだ。
葬儀・告別式は午前10時から。
それまでは何もすることがないので、奥さんと同じ寺に納骨されている友人の元を訪れたり、あっちうろうろこっちちょろちょろ。
しばらくすると葬儀社の担当者に呼ばれ、事務引き継ぎをすると。
午前10時、平日の忙しい中を多くの弔問客が見えられ、昨日と同じ僧侶3名の読経で葬儀・告別式が開始。
最後の葬儀委員長挨拶の際、参列者の前に立った母・私・弟。
葬儀委員長が挨拶している最中、母が私の方へ寄ってきたので邪魔なのかと私も場所をずらしたら、母が倒れそうと。
慌てて抱きかかえ、目の前に座っていた奥さんに椅子を持って来させ、すぐに座らせて事なきを得ました。
いよいよ出棺となり、最後の対面では母が父の元から離れられず、葬儀社の担当者から引き離されてしまった。
もう後1分位とも思いましたが、キリもないですし・・・、ここは涙を飲んで・・・。
棺に最後の釘が打たれ、もう生身の父には触る事は出来ない。
霊柩車には父と母、私達は葬儀社のマイクロバスで、市葬斎場(火葬場)へ。
時間的に混雑していたため、なかなか場内に入れませんでしたが、順番が来て棺が車から降ろされ、火葬炉前で最後のお別れ。
と言っても、この時に棺のふたが開けられる事はなく、今までドライアイスを乗せられて散々冷やされた体が、今度はバーナーで超高温にされる炉内に入れられてしまった。
南無阿弥陀仏
時間はちょうど昼時。
付き添って来ていた親戚や父の知人に控室で仕出し弁当が振る舞われましたが、酒が醒めきってなかった私はパス、着物で締め付けられていた奥さんもパス。
待合ロビーの椅子に座って待っていましたが、約1時間半ほどして係の人が迎えに来ました。
収骨室へ移動し、父との対面は、まだ熱い台車に載せられたお骨となっていました(お骨あげ)。
1片も残さないよう、熱さにめまいがしながらも箸で拾い集め、係員が炉ぼうきとちりとりで砕けたすべてを拾い集めてお骨入に収め、蓋をしめるとグシャッという砕けた音が響いた。
喉仏と残った歯は、私達が収骨する前に別に取り置いてあり、最後にそれを確認して終了しました。
喉仏は母が、それ以外の遺骨は私が、遺影は弟が持ってバスに乗り込み、お寺の会場へ戻り、まずは会場使用料や僧侶の日当、お布施などもろもろを含めた代金の支払いを兼ねて僧侶の控室へ母と2人で行き、僧侶への挨拶と今後の予定の打ち合わせを行いました。
それが済み、すぐに還骨法要(骨あげ法要)が始まり、代表して喪主の母が挨拶をし、持ち帰り用に用意してあった料理と引き出物、お供えされた供物を分配した袋を全員に渡して、俗一般に言う「お葬式」が終了しました(忌中引き、精進落としと呼ばれるものは、最近はその場ではしません)。
まだ温かい遺骨を私が抱いて実家に戻ると、葬儀社の担当者や仕出し料理店の担当者が残った料理や香典返し、供えられた花などを実家まで運んでくれ、更に祭壇を綺麗に飾って父の遺骨が安置されました。
今日はこれですべてが終わり。
ある程度経つと弟も帰り、また母と私達夫婦、そして父の4人になりました。
またこの料理かと仕出しの料理を広げて食べて飲み、結構酔ってきたところで父の祭壇前に座り込んで、ひとしきり会話をして本当に久々に2人で酒を酌み交わして、ようやく本格的に涙しました。
「朝食」(仕出し)
・ごはん
・岩ノリの味噌汁
・焼鮭
・生玉子
・焼海苔
・いとこが持ってきた解禁日初競りのウニ
「夕食」(実家で)
・法要に付けた持ち帰り用料理
・焼酎のウーロン茶割り
この日記は初七日の法要を終えて、ひと段落ついてから書いています。
いつも早起きで、なお且つほとんど寝てなかった母が、居間で寝ている私達に気を使って、それでも起きてきたのは午前6時過ぎ。
つられて私も起き出し、朝の身支度などをし、僧侶がお経をあげに来たのは午前8時半頃でしたか。
今日は昨日と打って変って、誰が訪問してくるでもない、時間が過ぎるのが遅く感じられるくらい平穏でした。
母と私達夫婦、そしてまだ生身の父がいる。
いつもと何ら変わらない風景なはずなのに、決定的違う事、父の胸部と腹部には冷たいドライアイスが乗せられていると言う事。
昼食後、弟がやってきて、着替えなどを始め、午後2時半過ぎ、葬儀社の社員3名が訪れ、父を運び出し、車で葬儀会場のお寺の会館へ運びました。
午後3時、親戚数十名と湯灌(ゆかん)の儀式を始め、小1時間で葬儀社の納棺師に死に装束に着替えさせられて棺に納められました。
昨日、延々と実家の居間を占領していた地方の父方の親戚にも、今日午後3時から行うと言ってあったのに、今日は誰1人姿を見せず。
通夜が午後7時からで、また3時間も4時間も待つのは嫌になったのか、でもそれって不義理でしょう。
まあ父がいなくなった今となっては、誰かの葬儀以外ではもうこの先お付き合いする事もないでしょうから、どうでもいいですけど。
会場に棺が安置させられ、母方の親戚達が着替えを始め、午後5時過ぎ、お手伝いをお願いした問屋の担当者と数名が会場入りし、まずは夕食代わりにと仕出し弁当を勧め、駐車場係をお願いしました。
親戚一同にも仕出し弁当を食べてもらえるだけの数を手配しましたが、もしもの場合を考えて私も奥さんも手は出しませんでした。
また言いますけど、昨日の親戚連中は先を争って食べてましたっけ。
午後6時を過ぎる頃から徐々に弔問客が訪れ始め、開始30分前には受付に長蛇の列が見えました。
開始20分前、家族が着席させられ、午後7時、僧侶3名が祭壇前に着席して通夜が開始されました。
一番前の席で思いましたが、大学病院のICUの時から、実家に安置されているまでは、いつでも父に触れる身近に感じましたが、儀式を重ねるに従い少しづつ遠くへ連れて行かれているような錯覚に陥っていました。
一通りの儀式が終了し、弔問客の弔辞を受けるべく会場前部に立って一人一人に頭を下げていましたが、途中で私の職場の職員が多くなると、堪えていたものが溢れ出してしまいました。
弔問客の皆さんがお帰りになり、会場や会計仏事などを担当してくださった母の職場の関係者の人達と、親族一同がテーブルについてオードブルをつまみながらビールなどで喉を潤してもらいました(通夜ぶるまい)。
手伝い関係者も帰り、親戚だけとなったので私もテーブルについてまずは何か食べようとしたところ、弟の嫁やいとこの嫁が私にしきりにビールを勧めるんです。
元々ビールが好きじゃない私、それより夜通しロウソクや線香を絶やさないようにと、会場に泊り込む者以外の者がすべて帰った後で、ゆっくりと飲もうと思っているのに、居酒屋でもあるまいし、席に着いたらまずはとりあえずビールなんて、非常に腹が立ちました。
しかも、弟の嫁はわが家の家族の一員であるのに、昨夜の段階から家にいる犬が心配だからと泊ることを拒み、母と私の怒りを買っているにも関わらず、知らん顔して1人手酌でビールを飲んでたんです。
ぶん殴って追い帰してやろうかとも思いましたが、そこまでの気力も残っていなかった。
そうこうするうちに、自分の母親の体調が悪いからと帰って行きましたが、だったら酒なんかのうのうと飲んでないでさっさと帰れって!
ほんとに、いい歳こきやがってふざけた嫁だ(怒)
その後、いとこや父の弟である叔父と酒を酌み交わし、結局夜中というか早朝に私もダウンした次第です。
「朝食」
・食べたか食べなかったかも覚えていません
「昼食」
・カップヌードル
・生前父が食べたいと言っていたという、あんかけ風カップ焼きそばをお供えした後私が食べました
「夕食」
・通夜のすべてが終わり、泊りの身内だけになってからオードブルや仕出し弁当のおかずなどを
・焼酎のウーロン茶割り
いつも早起きで、なお且つほとんど寝てなかった母が、居間で寝ている私達に気を使って、それでも起きてきたのは午前6時過ぎ。
つられて私も起き出し、朝の身支度などをし、僧侶がお経をあげに来たのは午前8時半頃でしたか。
今日は昨日と打って変って、誰が訪問してくるでもない、時間が過ぎるのが遅く感じられるくらい平穏でした。
母と私達夫婦、そしてまだ生身の父がいる。
いつもと何ら変わらない風景なはずなのに、決定的違う事、父の胸部と腹部には冷たいドライアイスが乗せられていると言う事。
昼食後、弟がやってきて、着替えなどを始め、午後2時半過ぎ、葬儀社の社員3名が訪れ、父を運び出し、車で葬儀会場のお寺の会館へ運びました。
午後3時、親戚数十名と湯灌(ゆかん)の儀式を始め、小1時間で葬儀社の納棺師に死に装束に着替えさせられて棺に納められました。
昨日、延々と実家の居間を占領していた地方の父方の親戚にも、今日午後3時から行うと言ってあったのに、今日は誰1人姿を見せず。
通夜が午後7時からで、また3時間も4時間も待つのは嫌になったのか、でもそれって不義理でしょう。
まあ父がいなくなった今となっては、誰かの葬儀以外ではもうこの先お付き合いする事もないでしょうから、どうでもいいですけど。
会場に棺が安置させられ、母方の親戚達が着替えを始め、午後5時過ぎ、お手伝いをお願いした問屋の担当者と数名が会場入りし、まずは夕食代わりにと仕出し弁当を勧め、駐車場係をお願いしました。
親戚一同にも仕出し弁当を食べてもらえるだけの数を手配しましたが、もしもの場合を考えて私も奥さんも手は出しませんでした。
また言いますけど、昨日の親戚連中は先を争って食べてましたっけ。
午後6時を過ぎる頃から徐々に弔問客が訪れ始め、開始30分前には受付に長蛇の列が見えました。
開始20分前、家族が着席させられ、午後7時、僧侶3名が祭壇前に着席して通夜が開始されました。
一番前の席で思いましたが、大学病院のICUの時から、実家に安置されているまでは、いつでも父に触れる身近に感じましたが、儀式を重ねるに従い少しづつ遠くへ連れて行かれているような錯覚に陥っていました。
一通りの儀式が終了し、弔問客の弔辞を受けるべく会場前部に立って一人一人に頭を下げていましたが、途中で私の職場の職員が多くなると、堪えていたものが溢れ出してしまいました。
弔問客の皆さんがお帰りになり、会場や会計仏事などを担当してくださった母の職場の関係者の人達と、親族一同がテーブルについてオードブルをつまみながらビールなどで喉を潤してもらいました(通夜ぶるまい)。
手伝い関係者も帰り、親戚だけとなったので私もテーブルについてまずは何か食べようとしたところ、弟の嫁やいとこの嫁が私にしきりにビールを勧めるんです。
元々ビールが好きじゃない私、それより夜通しロウソクや線香を絶やさないようにと、会場に泊り込む者以外の者がすべて帰った後で、ゆっくりと飲もうと思っているのに、居酒屋でもあるまいし、席に着いたらまずはとりあえずビールなんて、非常に腹が立ちました。
しかも、弟の嫁はわが家の家族の一員であるのに、昨夜の段階から家にいる犬が心配だからと泊ることを拒み、母と私の怒りを買っているにも関わらず、知らん顔して1人手酌でビールを飲んでたんです。
ぶん殴って追い帰してやろうかとも思いましたが、そこまでの気力も残っていなかった。
そうこうするうちに、自分の母親の体調が悪いからと帰って行きましたが、だったら酒なんかのうのうと飲んでないでさっさと帰れって!
ほんとに、いい歳こきやがってふざけた嫁だ(怒)
その後、いとこや父の弟である叔父と酒を酌み交わし、結局夜中というか早朝に私もダウンした次第です。
「朝食」
・食べたか食べなかったかも覚えていません
「昼食」
・カップヌードル
・生前父が食べたいと言っていたという、あんかけ風カップ焼きそばをお供えした後私が食べました
「夕食」
・通夜のすべてが終わり、泊りの身内だけになってからオードブルや仕出し弁当のおかずなどを
・焼酎のウーロン茶割り
この日記は初七日の法要を終えて、ひと段落ついてから書いています。
昨夜からの経過をお話しします。
昨夜、午後10時半の段階ではどこからも何の連絡もなく、シャワーを浴びてさっぱりした後、明日もまた朝早くに父の元に向かうからと一杯やりながらそろそろ寝ようとしていました。
まさに布団に入ろうとした午後11時16分(着信履歴で確認)、携帯の着信音が鳴りました。
母から、大学病院から電話が来て、もうダメだからすぐに来てくださいと。
いよいよ来る時が来たか、今夜1晩持ちそうだったけど、やはり頑張れなかったかとの思いを抱きながらタクシーを呼び、すぐ弟に連絡して向かいました。
大学病院に着いたのは、午前0時5分。
母・私達・弟夫婦の5人でICUに入って行くと、主治医だった3人が揃って待っており、父を見ると、大学病院に向かっている最中にすでにこの世を去っていたようで、気管切開の傷も綺麗に縫合してあり、体内に入れられていた管のすべてが取り外されていました。
主治医の1人が聴診器で心音を確認し、ペンライトで両目の瞳孔を確認して、午前0時24分死亡宣告がなされました。
家族全員、不思議と取りみだす事はありませんでした。
臨終に際して、十分な時間を持てましたし、急変は突然でしたが、それ以降も徐々に徐々にでしたから、心構えをする時間を父が作ってくれたものと思っています。
さらに、容態が変わらないと見せかけておいて、一旦帰ってシャワーでも浴びて綺麗にしてからまた来いと、父がそう仕向けてくれたものと思っています。
父を実家へ連れて帰る前に、地元の葬儀社に連絡して車の手配をしてもらい、到着するまでの間に看護師が父の体を綺麗にしてくれ、霊安室で多少休憩し、迎えの車で一路実家に向かいました。
札幌の葬儀社の車で帰宅しましたが、地元の葬儀社との連携がうまく行かず、1時間近くも待たされてようやく父がいつも寝ていた位置に安置できました。
もうどこへも行かなくていい、もう病院通いをしなくてもいい、もう苦しまなくてもいい。
自分が長年暮らした実家の、自分の定位置に安置されて、喜んでくれていれば・・・。
病院から到着する以前に母方の叔母2人も駆けつけてくれていたので午前4時前、一旦私達2人は自宅に戻り、さし当たっての着替えや必需品と喪服など一式を旅行カバンに詰め込み、近所のコンビニへ行ってこれから来るであろう弔問客用の飲み物や、自分達がとりあえず食べるためのおにぎりとサンドイッチを大量に買い込み、父が好きだったキャラメルや飲料も買い、タクシーで実家へ戻りました。
およそ世の中が動き始める時間を待って、母・私達・弟が関係各方面に連絡を始めました。
その後僧侶が来訪し、枕教(臨終勤行(りんじゅうごんぎょう))を上げて、日程や寺院使用の依頼などを行いました。
その後も次々と来る弔問客の応対。
一息ついた時、昨日朝普通に起床してから一睡もしていないのもあって、いつの間にか40、50分程爆睡。
起きてからは今度は、葬儀社と仕出し料理屋との打ち合わせなど。
今回喪主は母でしたが施主は立てず、でも実質的にカネは出さないが口は出してるので私が施主扱いだったよう。
打ち合わせを済ませて、奥さんを留守番にして母と2人、市役所と銀行へ。
市役所では、死亡診断書を提出し、火葬許可証をもらうんですが、何故か担当者は手書きで書類を作成していたので、かなり待たされました。
市役所近くのコンビニで昼食を買い、タクシーで実家に戻って一休み。
食後今度は奥さんと出かけ、私のワイシャツや来客用のコップを買い、戻りました。
この後は夕方6時からの仮通夜まで何もなく、それまでの間に少しでも仮眠をと思って戻ったんですが、午後2時前にはすでに地方から父方の親戚が大挙して訪れていて居間を占領しており、休むどころの騒ぎではありませんでした。
家族の事を考えたら、常識的にせいぜい1時間前に来たと言うなら分かりますが、4時間も前に来てただただ居座られるって、非常識この上ないと思います。
その間、「少し休んで」とか「お構いなく」とか言ってましたが、どこの世界に来てくれた親戚をほったらかしにしておけると思いますか。
来た親戚も何もする事なく、ただただボーっとして時間が来るのを待つだけ、来られたこちら側は、時間までの間居間で何かをしたくても出来ず、別の来客があっても動こうとしないため応対もほとんどできない状態。
不愉快なのを隠しながらも、ようやく午後6時、僧侶がやってきて仮通夜が始まりました。
終了後、手配してあった仕出し弁当をふるまって、暫時お引き取り願い、ようやく家族5人と父だけになったのは午後8時頃だったでしょうか。
色々な意味で疲れ果ててましたから、とりあえずビールで労をねぎらい合い、弟夫婦も帰宅して、母は別室で、私達は父が眠る隣の居間で、寝るでも寝ないでもない、長く短い昨日からの約38時間を終えました。
「朝食」
・おにぎり2個
「昼食」
・割り子そば
・おにぎり
「夕食」
・仕出し弁当
・缶ビール1本
・焼酎のウーロン茶割り
昨夜からの経過をお話しします。
昨夜、午後10時半の段階ではどこからも何の連絡もなく、シャワーを浴びてさっぱりした後、明日もまた朝早くに父の元に向かうからと一杯やりながらそろそろ寝ようとしていました。
まさに布団に入ろうとした午後11時16分(着信履歴で確認)、携帯の着信音が鳴りました。
母から、大学病院から電話が来て、もうダメだからすぐに来てくださいと。
いよいよ来る時が来たか、今夜1晩持ちそうだったけど、やはり頑張れなかったかとの思いを抱きながらタクシーを呼び、すぐ弟に連絡して向かいました。
大学病院に着いたのは、午前0時5分。
母・私達・弟夫婦の5人でICUに入って行くと、主治医だった3人が揃って待っており、父を見ると、大学病院に向かっている最中にすでにこの世を去っていたようで、気管切開の傷も綺麗に縫合してあり、体内に入れられていた管のすべてが取り外されていました。
主治医の1人が聴診器で心音を確認し、ペンライトで両目の瞳孔を確認して、午前0時24分死亡宣告がなされました。
家族全員、不思議と取りみだす事はありませんでした。
臨終に際して、十分な時間を持てましたし、急変は突然でしたが、それ以降も徐々に徐々にでしたから、心構えをする時間を父が作ってくれたものと思っています。
さらに、容態が変わらないと見せかけておいて、一旦帰ってシャワーでも浴びて綺麗にしてからまた来いと、父がそう仕向けてくれたものと思っています。
父を実家へ連れて帰る前に、地元の葬儀社に連絡して車の手配をしてもらい、到着するまでの間に看護師が父の体を綺麗にしてくれ、霊安室で多少休憩し、迎えの車で一路実家に向かいました。
札幌の葬儀社の車で帰宅しましたが、地元の葬儀社との連携がうまく行かず、1時間近くも待たされてようやく父がいつも寝ていた位置に安置できました。
もうどこへも行かなくていい、もう病院通いをしなくてもいい、もう苦しまなくてもいい。
自分が長年暮らした実家の、自分の定位置に安置されて、喜んでくれていれば・・・。
病院から到着する以前に母方の叔母2人も駆けつけてくれていたので午前4時前、一旦私達2人は自宅に戻り、さし当たっての着替えや必需品と喪服など一式を旅行カバンに詰め込み、近所のコンビニへ行ってこれから来るであろう弔問客用の飲み物や、自分達がとりあえず食べるためのおにぎりとサンドイッチを大量に買い込み、父が好きだったキャラメルや飲料も買い、タクシーで実家へ戻りました。
およそ世の中が動き始める時間を待って、母・私達・弟が関係各方面に連絡を始めました。
その後僧侶が来訪し、枕教(臨終勤行(りんじゅうごんぎょう))を上げて、日程や寺院使用の依頼などを行いました。
その後も次々と来る弔問客の応対。
一息ついた時、昨日朝普通に起床してから一睡もしていないのもあって、いつの間にか40、50分程爆睡。
起きてからは今度は、葬儀社と仕出し料理屋との打ち合わせなど。
今回喪主は母でしたが施主は立てず、でも実質的にカネは出さないが口は出してるので私が施主扱いだったよう。
打ち合わせを済ませて、奥さんを留守番にして母と2人、市役所と銀行へ。
市役所では、死亡診断書を提出し、火葬許可証をもらうんですが、何故か担当者は手書きで書類を作成していたので、かなり待たされました。
市役所近くのコンビニで昼食を買い、タクシーで実家に戻って一休み。
食後今度は奥さんと出かけ、私のワイシャツや来客用のコップを買い、戻りました。
この後は夕方6時からの仮通夜まで何もなく、それまでの間に少しでも仮眠をと思って戻ったんですが、午後2時前にはすでに地方から父方の親戚が大挙して訪れていて居間を占領しており、休むどころの騒ぎではありませんでした。
家族の事を考えたら、常識的にせいぜい1時間前に来たと言うなら分かりますが、4時間も前に来てただただ居座られるって、非常識この上ないと思います。
その間、「少し休んで」とか「お構いなく」とか言ってましたが、どこの世界に来てくれた親戚をほったらかしにしておけると思いますか。
来た親戚も何もする事なく、ただただボーっとして時間が来るのを待つだけ、来られたこちら側は、時間までの間居間で何かをしたくても出来ず、別の来客があっても動こうとしないため応対もほとんどできない状態。
不愉快なのを隠しながらも、ようやく午後6時、僧侶がやってきて仮通夜が始まりました。
終了後、手配してあった仕出し弁当をふるまって、暫時お引き取り願い、ようやく家族5人と父だけになったのは午後8時頃だったでしょうか。
色々な意味で疲れ果ててましたから、とりあえずビールで労をねぎらい合い、弟夫婦も帰宅して、母は別室で、私達は父が眠る隣の居間で、寝るでも寝ないでもない、長く短い昨日からの約38時間を終えました。
「朝食」
・おにぎり2個
「昼食」
・割り子そば
・おにぎり
「夕食」
・仕出し弁当
・缶ビール1本
・焼酎のウーロン茶割り
カレンダー
お客さま数
プロフィール
HN:
管理人「か」
性別:
男性
趣味:
食べる事、旅行、飛行機関連
自己紹介:
某医療機関に勤務する、メタボな食いしん坊です。
もともと民間旅客機・軍用機を含む航空機全般が好きでしたが、2006年の4月から陸マイラー(時々空マイラー)生活を始めた、もっぱらJALマイラーです。
保有JALマイル
合算:76,381マイル
私の分:76,381マイル
奥さん分:0マイル
2021年2月15日現在
マイル使用歴
2009/1/15:40,000マイル
2010/1/11:50,000マイル
2011/1/15:70,000マイル
2011/11/1:60,000マイル
2012/9/10:40,000マイル
2015/1/17:100,000マイル
2017/1/12:10,000マイル
2018/4/23:30,000マイル
2018/10/20:50,000マイル
2019/10/31:15,000マイル
2019/12/15:35,000マイル
2020/6/18:20,000マイル
もともと民間旅客機・軍用機を含む航空機全般が好きでしたが、2006年の4月から陸マイラー(時々空マイラー)生活を始めた、もっぱらJALマイラーです。
保有JALマイル
合算:76,381マイル
私の分:76,381マイル
奥さん分:0マイル
2021年2月15日現在
マイル使用歴
2009/1/15:40,000マイル
2010/1/11:50,000マイル
2011/1/15:70,000マイル
2011/11/1:60,000マイル
2012/9/10:40,000マイル
2015/1/17:100,000マイル
2017/1/12:10,000マイル
2018/4/23:30,000マイル
2018/10/20:50,000マイル
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