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管理人の食卓風景と日常の日記
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話は遡りますが、一昨年の12月、父が食道静脈瘤を破裂させて当院に救急車で搬送され、手の施しようがないからと公立病院へ転送された時、救急車に同乗して公立病院へ状況報告と書類手続きをしてくれた若い看護師がいました。
その後父が他界し、通夜に参列してくれ、最後の焼香の挨拶で私の前に現れた姿を見て、その時の事を思い出してしまって不覚にも涙してしまった私でした。
忌引き休みを終えて出勤して数日後、その看護師が私の所にやって来て、口内炎がなかなか治らないけどどうしたらいいだろうと相談をされました。
見ると、舌の横奥の方に潰瘍にも見えるほどの炎症が起きてるのが見え、取りあえずすぐに歯科を受診して歯が引っ掛かってないか診察してもらいなさいと彼女を行かせたんです。
2週間ほどしてまた私の所にやって来て、歯科医からすぐに総合病院へ行きなさいと紹介状を書いてもらったと報告がありました。
その後は看護師長からの報告ですが、総合病院からすぐに大学病院に送られ、検査の結果舌ガンとの診断で至急手術をする事になったと。
手術は成功しましたが、その後の根治のための放射線治療を拒否したとも報告がありました。
経過は順調だったようですが、術後から主治医からは転移の可能性の事を言われていたそうです。
秋になって、いつの間にか彼女が復職する事になったらしく、白衣を着てマスクでむくんだ顔を隠すようにしながら、仕事を再開していました。
ただ、大学病院への通院もあるため、全く普通にとまではいかず、複数の診療科を受診していたそうで勤務できるのは限られていました。
もちろん私の所にも挨拶にやって来て、舌を切除したから話しづらいとか、唾液を呑み込むのが上手くいかないとか、放射線治療を拒否したのは、もう痛いのも辛いのも嫌だったからと話を懸命にしてくれたんです。
ただ、その場で痛いという言葉は1度も口にしませんでした。
実は、退院時に彼女の母親が持ってきた、処方内容と主治医の言った言葉のメモ書きが、看護師長から私の所にコピーが届いていて、抗がん剤と麻薬を服用している事を知っていました。
もうすぐ雪が降るかと言った昨年の晩秋、休み明けの月曜に出勤すると看護師長が飛んでやって来て、彼女がIDカードで薬局に入り込んで薬を盗もうとしていたのを同僚の看護士が止めさせたと報告がありました。
その日は朝から彼女の挙動が不審だったのを同僚が気にしていて、ふとどこかへ行ったので後をつけたら用もないのに薬局に入って薬を取ろうとしていたんだそうです。
事情を聞くと、手術をしたところが痛いから鎮痛剤を貰おうと思ったと告白したそうですが、後で聞いた話ではその数日前に、どこから聞いたらしい睡眠薬と酒を一緒に飲むと死ねると言うので試したけど死ねなかったということで、大量の睡眠薬を盗んで自殺しようとしたらしいんです。
若い女性が痛い思いをして苦しんで、再発や転移の心配のプレッシャーに押しつぶされそうになるのは仕方がないかもしれません。
常に死と隣り合わせの状況では、自ら命を絶ちたいとの希死念慮に駆られるのもしょうがないのかもしれません。
しかも、彼女は薬局のどこに睡眠薬がしまってあるかを熟知していましたから、同僚が不審に思わなければまんまと目的は達成できた事でしょう。
それを聞いた私は、すぐに睡眠薬類を全く今までしまった事のない場所に移しました。
その事件をきっかけに、実は大学病院の主治医から復職の許可など出てない事、自宅で安静にして療養する様に指示されていた事が分かり、病欠のまま勤務停止を言い渡しました。
昨年12月に入ってすぐ、看護師長からの報告で、自宅療養中に呼吸困難になり大学病院へ搬送されたと。
恐れていた再発と転移が確認され、年内一杯持つかどうかの所まで来てしまったらしいんです。
その後彼女の母親が病院にやって来て、もうダメだから退職させて欲しいとの申し出がありましたが、院長は許可せず、そのまま当院職員の身分で病気療養をするようにとの指示が出ました。
年を越したところで、嚥下ができないため胃に穴を開けて流動食を流し込むPEGを増設し、拒否していた放射線治療も始まったという話があり、そのため容態も安定し少しでも回復に向けて進んでいるとの報告がありました。
その後退院し、自宅療養を続けていたそうですが、今月の6日、突然彼女からのメールが着信しました。
何事かと文章を見ると、メアドを変えましたとの内容でしたので、元気にしているんだなと思って返信したんです。
今朝、看護師長から内線があり、彼女が死んだと・・・。
突然の事で職員全員が混乱しましたが、とりあえず彼女が勤務していた病棟の主任、事務長、看護師長、そして私の4人で自宅に弔問に行き、家族の話を聞くと、自宅療養中もやはり苦しそうだったと、先週13日から容態が悪化して大学病院に再入院していたと、肺にも影があって肺転移も起こしていたそうでした。
そして今日、午前0時半過ぎ、最後まで看護師の職に戻ると言い張って頑張って療養していた希望も虚しく、息を引き取ったそうです。
享年24歳。
人生はこれからだったのに、早過ぎる。
好きだったアイドルグループの曲が流され、そのグループの写真とグッズが周りを取り囲む中、まるでぐっすり眠っているような穏やかな顔で自宅に安置されていました。
彼女が世話をしてくれた私の父の1年と1日後に・・・、偶然とはいえ私には辛過ぎます。
合掌 m(_ _)m

「朝食」
・マヨソーセージパン
・野菜ジュース

「昼食」
・ワンタン麺
・ミニ山菜おこわおにぎり

「夕食」
・ごはん
・実家から貰ってきた煮しめ
・サバ味噌煮缶残り
・焼酎のウーロン茶割り

今日のBW:65kg

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今日5月19日は、父の本命日。
1年は本当に早いなと言うのが実感。
仕事が午前中で終わったので、帰宅し昼食後、供えるケーキと仕出し寿司店の営業担当者への謝礼代わりの商品券を買いに。
帰る道すがら、1年前の今日の午後も暑かったよなぁ、と感慨にふけったりして。

もう大分記憶が風化しかかってる部分があるけど、父に関わった部分と怒りに震えた出来事って忘れないものです。
夜中に札幌の病院から実家へ連れ戻った時、地元の葬儀社の人間が待ってもなかなか来ず、しびれを切らした札幌の葬儀業者が狭いエレベーターに無理矢理父を縦にして押しこんで、私も父がずり落ちないようにエレベーターの中で支えた事。
業務開始時間を待って、母と私が父の死を隠して金融機関を回り預金口座から現金を引き出した事。
最終的に死亡届を出すために市役所へ行って、手続きを済ませて外に出た時、暑さと疲れと寝不足にやられて、私の意識が何度も遠のいたこと。
ちょっとでも休もうと実家に戻ってみると、まだ午後の2時やそこらなのに居間には地方からの父方の親戚が大挙して来て占領していて、「疲れたでしょ、休みなさい」なんて白々しく言われても、あんた達がいるせいで休める訳がないだろと怒りが爆発した事。
仮通夜が終わって、お斎を提供したのはいいけど、テレビで野球を見ていていつまでも帰ろうとしない非常識な親戚どもに、帰れっ!と怒鳴りたくなった事。
翌日寺での「湯灌(ゆかん:死装束に着替えさせる儀式)」には、その地方の親戚の誰1人として来なかった事。
葬儀全般が終わって、遺骨とともに実家に戻って、お供えされた花やお菓子や缶詰や果物を、母が母方の親戚に好きなのがあったら持って行っていいよと言ったばかりに、一旦自宅に戻って着替えて実家へ行った私が見ると、目ぼしい物はすべて奪われつくされて、何1つロクなものが残ってなかった事に唖然とした事。
こんな話を、今夜弟夫婦と実家に集まって、酒の肴にしてました。

今夜私達は、夕方5時から5時半頃に集まったんですが、昼間には母方の親戚が集まっていて、僧侶のお勤めとその後の寺での永代経供養にも参列したんだそうです。
実家では母が炊き込みご飯と煮しめを作って昼食としてもてなしたそうですが、その連中と鉢合わせするとロクな事がないから、わざわざ夕方に我ら家族は集まる事にしました。
弟夫婦とうちの奥さんは今日は仕事が休みで、私は昼までの勤務だったにもかかわらずです。
下手に寿司など取ろうものなら、自分達の好みのネタばっかりを食いつくして行くでしょ。
それどころか、我々が食べる分の事など考えずに食べまくって、ちょっとでも余ってると見たら息子夫婦や娘夫婦に持って行くと言ってすべてを持って行ってしまいますから。
案の定、大鍋に作った煮しめも、母が「少し」持って行ってと言っただけで、そのほとんどを誰々にも持って行くからと言って持って行っちゃったんですって;
私も明日の夜の酒のつまみと夕食用に貰って行こうと思っていたのに、ほとんど残ってないんですよ;
そして、食事をしながら母方の親戚は、1年前に父方の親戚が今を占領していて自分達の居場所がなかったと文句を言ってたそうです。
あんたら全員、どっちもどっちだ!

「朝食」
・ごはん
・海苔
・シジミの味噌汁
・サバの味噌煮缶

「昼食」
・割子そば
・太巻きセット(海鮮太巻き、サラダ太巻き、玉子太巻き)

「夕食」(実家で)
・煮しめ(揚げ、がんも、椎茸、コンニャク、里芋、玉子)
・鶏の磯辺揚げ風
・カブときゅうりの漬物
・つぶの刺身
・握り(ホッキ、アワビ、ズワイガニ、ホタテ、ボタンエビ、シャコ)
・焼酎のウーロン茶割り
・抹茶ケーキ

今日のBW:65kg

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今日夕方、受付事務員の御祖母様の通夜に行ってきました。
終業の10分前に着替えて自宅に戻り、喪服に着替えて徒歩でおよそ10分の所にある葬儀会場へと急ぎました。
会場に到着したのは通夜開始の15分程前。
受付で香典を渡し、病院親睦会からの分の、北海道独特の習慣である領収書と香典返しを受け取って席につくと、時間はすでに開始間近になっていました。
結構急いだんですけど、ギリに近かったですね。
遺族である受付事務員から聞いてましたが、仕出しは私が懇意にしている寿司屋で、わが家の葬儀全般と先日の1周忌にも仕出しをお願いした店だと。
遺族の中に、その寿司屋で働いている人がいるらしく、その関係でお願いしたんだそうです。
その人は厨房にいる様で、客席には出てこないそうですが、顔を見れば分かるかもね。
ってな訳で、会場の受付テーブルには先日父の1周忌を取り仕切って、司会までさせちゃった寿司屋の営業担当者が座っていました。
私の姿を見た瞬間、驚いた顔をしてましたが、そりゃ当然ですわね。
まず先日の礼を言い、領収書を書いてもらってる最中に故人とどういった関係ですかとその営業担当者が聞くので、こうこうこうで当院の受付事務員の孫なんで、親睦会から香典が出るため私が持って参列しに来たと。
「わざわざ先生がですか?」と言うので、私は親睦会の会長だからと答えると、更に驚いた表情になりましたな、あの担当者。
言うに事欠いて、会で何かのイベントがあったら自分の寿司屋を使ってくださいだって;
残念ながら貧乏な会なんで無理と、丁寧にお断りして席に着いたんですが、そんな事やってるから通夜開始直前になっちゃったのもあるんです。
予定の2分前に僧侶が2名会場入りし、何事か祭壇で始めたようですがこちらからは見えない。
そのうちに、水なのかお酒なのかよく分からない謎の液体を、3方に向かって何か筆の様なものでまき散らしました。
これは一体何宗の儀式なんだろうか?
私はそう頻繁に通夜の席に出る事はありませんので、祭壇や儀式を見ただけで宗派が分かる訳がない。
木魚をポクポク、鐘をゴーン、お経の文句は抑揚がなく平坦な読み方。
うちの宗派とは大違いな進行で、最後の僧侶の言葉の時になって初めて僧侶の口から宗派が告げられて、いろんな意味でへぇ~と感心してしまった。
ここに書いた文章を読んだだけで宗派が分かってしまう人もいるでしょうけど、私にはさっぱり;
葬儀委員長の挨拶になり、喪主と並んで前に立った老齢男性。
新聞の「おくやみ欄」でよく見る名前の人で、葬儀委員長のプロみたいな人。
立ち居振る舞いからしゃべり方から間の取り方から、まるで自分に酔ってる俳優がセリフを言ってるように思えて、だんだん腹が立って来るのと笑えてくるのが同時に襲ってきて、あきれけぇってしまった。
涙を誘うような語り口でツボを心得ているのはいいんだけど、かえってそれが鼻についてね。
最後の焼香を終え、喪主と受付事務員にお悔やみの言葉を言って玄関に向かうと、例の寿司屋の営業担当者が立って待っていて、19日に出前の寿司を持って実家へ行きますからと挨拶を交わして帰途につきました。
日曜日の1周忌に来た喪服、洗濯にでも出そうかと思っていたんですが、また今日も線香と抹香の洗礼を浴びて、自分自身がアロマテラピーでも受けてるかのようになってしまいました。

「朝食」
・ごはん
・漬物
・シジミの味噌汁
・法事に付いた折詰の残り(ホタテベーコン巻、タラ粕漬け焼)

「昼食」
・広東麺

「夕食」
・半炒飯&半ソース焼きそば
・焼酎のウーロン茶割り

今日のBW:65kg

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最近、朝の4時前に目が醒めるんです。
もうこの頃はこの時間でも外が明るいんですね。
トイレに行って、まだあと3時間は寝れると眠りにつくんですが、ふと目が醒めて時計を見ると1時間かそこらしか時間が経ってなくて、午前5時とか5時半頃なんですよ。
また1時間半も寝れるじゃんと思い直して眠りにつこうとするんですが、寝返りゴロゴロ、トイレに行ったりして、寝付いたつもりがまた時計を見ると、それから1時間も経ってない。
あと何十分と思いつつ少しでも寝ようとするんですが、10分おき位に時計を見てる自分がそこにいるんです。
そして、あ~あと10分位で目覚まし時計が鳴るなと思った時、次の瞬間に目覚まし時計が鳴るんです。
そう!最後の10分位で汗ビッチョリになりながら爆睡してしまうようです。
この症状って、一体何なんでしょ?
これも睡眠障害の一種なんでしょうか。
毎日じゃないんですけど、こういった行動が頻繁に続いて、特に最近ひどくなってきてるんですよ。
寝坊しちゃいけないって意識?
いまだかつて寝坊なんかした事ないんですけどね。
何だかとっても睡眠不足な日々の様な気がして、午後から眠くて居眠りしてしまう私でした。
仕事中ですけどね(^^ゞ

今朝出勤すると、受付事務員の1人が欠勤してました。
事情を何も知らされてなかったので、救急当番の代休でも取ったのかくらいにしか思ってなかったんです。
仕事をしていると、別の事務員が来て「聞いてる?」と。
何が?と聞くと、受付事務員の祖母が亡くなったそうなんです。
親睦会の会長である私の決済で、受付事務員に対して香典を出す事にしなければならないので、裁可を貰いに来たとの事。
ところがその受付事務員、午後からは出勤してくると。
午後に休みを取ってる別の受付事務員が、どうしても代わってあげられない用事があるからだったそうです。
昼休みから戻ってくると、その受付事務員が出勤していて、聞くと通夜は明日の午後6時から、つつましやかに身内だけで小さな葬儀会場で行うと。
だから来ないで欲しいような事を女性事務員は言ってましたが、社会通念上そういう訳にも行きませんしね。
葬儀会場は当院から歩いて行ける距離ですし、女性事務員とは冗談を言い合ったり一緒に大勢で飲んだりとかはしますが、特別親しいと言う訳でもないけど親睦会会長として香典を持って行かなければなりませんね。
と言う訳で、昨日の時点で、もうしばらくは着たくないなと言ってハンガーにつるした喪服を、明日も引っ張り出して着なければならなくなりました。
こんな服は、着なくてもいいのなら着たくなんかないんですけど、仕方がないですね。
明日午後6時からのお通夜、仕事が終わって帰宅して着替えてから出なければなりませんが、時間がギリなので今日のうちに香典袋など準備を整えて、明日は早着替えのようにして出かけたいと思います。
ん?数珠はどこだ?

「朝食」
・ハムチーズたまごサンド
・野菜ジュース

「昼食」
・海老天月見そば

「夕食」
・昨日の法事に付いた折詰(う巻き、鶏照焼き、牛蒡肉巻など)
・焼酎のウーロン茶割り

今日のBW:65kg

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今朝の起床は午前7時20分。
今日は、亡き父の1周忌繰り上げ法要が行われました。
そのため、日曜にもかかわらず朝早く起きて準備をし、午前9時半少し前に会場のお寺の会館に到着しました。
ちょっと早過ぎるかと思いましたけど、準備ができてしまったら家にいても落ち着きませんしね。
祭壇はすでにできていて、花も数件から届いていました。
今日の仕出しを担当してくれる、いつもの寿司屋の営業担当者が来て、宜しくとご挨拶。
その間にも花が続々と届いて、置く場所に困ってしまうほどでした。
程なくして母と弟夫婦も到着。
更に届く供花とお供物の果物かご。
営業担当と打ち合わせをして、ブラブラしていたら親戚達が続々と到着し、あれよあれよと言う間に時間はもう開始30分前にもなっていました。
招待客も続々と訪れ、母・私達夫婦・弟夫婦が玄関前に並んで、来客1人1人に頭を下げてご挨拶。
法要開始の数分前に僧侶が準備のため会場入りし、全員着席して法要が始まりました。
今日の参列者は、私達も含めて50数名と、普通の1周忌にしては数が多いとあちこちで驚かれ、更に祭壇とその前に置かれた供花とお供物の数に、お寺の関係者も驚いていました。
読経と焼香が終わり、意味不明な僧侶の説話の後、一旦会場から出てもらい、「お斎(おとき)」の準備もてんやわんや。
数が多いため配膳と名札の設置が追い付かず、私達も手伝いましたが、お客様にはかなりお待たせしてしまって申し訳なかったと思います。
着席して頂き、今日の司会は営業担当者に依頼してありました。
彼自身、寿司屋の仕出し部門の営業担当であって葬儀社の人間ではないので、こう言った法事での司会など生まれて初めてだったとか。
あらかじめ書いてきてくれてただろう文章を読み上げる声が、ミョーに震えていて緊張しまくってるのがヒシヒシと伝わって来ましたね。
でもここだけの話、彼には適任者は君しかいなかったと言ってありますが、実の所は別に司会を頼むとカネがかかるし、かと言って私や来客に頼むのも変な話です。
そこで、身近で頼みやすく、嫌とは言えない立場の彼に母から頼ませたわけ。
次いで喪主である母からのご挨拶。
母も原稿を作って来てまして、事前に見せてもらいましたが、文章はごくありきたりの、当たらず障らずの文章で良しと言う事で。
見ないで言おうか見ながら言おうかと母が聞くので、客の前に立ってその時になったら頭の中が真っ白になるから見ながら言いなさいとアドバイス。
そして、これも事前にお願いしてあった当院院長の献杯の発声の後、会食となりました。
私は母と、うちの奥さんと弟夫婦は3人でお酌と挨拶に回り、席に戻ってもどこに何を食べたのか訳が分からない。
そのうちに客が残った料理を折りに詰め始めたので、家族5人で引き出物を1人づつ声をかけながら母が渡す手伝いをしました。
まずは院長と中堅ドクターが席を立ち、次々と帰り始めました。
この時も5人が玄関に並んでお見送りのご挨拶。
招待客が全員帰り、親戚も全員会場を後にしたのを確認して、私達も帰る事としました。
午前9時半少し前に到着し、午前11時に始まって、会場を後にしたのは午後1時半頃。
あっという間の4時間でした。

1年って、本当に早いですね。
昨年の今日はどうだったかブログを見てみると、気管切開されて挿管はされていましたが、呼びかけに反応があったんですよ。
それがわずか数日で・・・。
初七日から毎週、四十九日以降は毎月の月命日に実家へ通い、お盆とお彼岸を迎えて歳を越してまたお彼岸、そして今日はもう1周忌です。
1年前の事がまだ走馬灯のようによみがえって来ます。
本命日の19日に、また実家に集合ですが、母もようやく肩の荷が1つでも降りたんじゃないでしょうか。
私も・・・、とりあえずは精神的に楽になった様な気がします。
もう来年の3回忌の話も出ましたけど、今しばらくはこのままで。

「朝食」
・バターロール
・黒烏龍茶

「昼食」(法事の料理)
・栗入り茶わん蒸し
・飛龍頭、カニあんかけ
・エノキと刻み昆布の和え物?
・刺身(マグロ、甘エビ、ホッキ、白身)
・天ぷら(キス、ピーマン)
・温山菜茶そば
・ウーロン茶
・ノンアルコールビール
挨拶回りやら何やらで、何が出たかもあまり覚えてませんし、どこに食べたのか分からない状態でした;
残りと折りは持ち帰りました

「実家で」
・缶ビール3本
・灯台ツブ煮

「自宅で」
・焼酎のウーロン茶割り
・昼の仕出しに付いた握り(マグロ②、ヒラメ②、ホタテ②、ボタンエビ②、いくら軍艦②)
・ミニカップ天そば
・お供えで頂いた洋菓子

今日のBW:65.5kg

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プロフィール
HN:
管理人「か」
性別:
男性
趣味:
食べる事、旅行、飛行機関連
自己紹介:
某医療機関に勤務する、メタボな食いしん坊です。
もともと民間旅客機・軍用機を含む航空機全般が好きでしたが、2006年の4月から陸マイラー(時々空マイラー)生活を始めた、もっぱらJALマイラーです。

   保有JALマイル
合算:76,381マイル
私の分:76,381マイル
奥さん分:0マイル
2021年2月15日現在

マイル使用歴
2009/1/15:40,000マイル
2010/1/11:50,000マイル
2011/1/15:70,000マイル
2011/11/1:60,000マイル
2012/9/10:40,000マイル
2015/1/17:100,000マイル
2017/1/12:10,000マイル
2018/4/23:30,000マイル
2018/10/20:50,000マイル
2019/10/31:15,000マイル
2019/12/15:35,000マイル
2020/6/18:20,000マイル
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