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管理人の食卓風景と日常の日記
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今日は、昨日とはうって変わって晴天の1日でした。
ただ、昨日の爆弾低気圧の爪痕が残っていて、室蘭・登別方面ではまだ停電が続き、市民生活や商売に多大な影響と被害を出し続けているようです。
何といっても、季節は冬ですから暖房器具が生きていくうえで必需品なのに、今の時代の暖房器具のほとんどが電気で点火し、電力でファンを回してストーブの熱を送風する機構になっているので、停電になったらストーブは何の役にも立たない。
昔ながらの、乾電池など電力を使わずに点火できる灯油ポット式ストーブもありますが、昨年の大震災以来見直されていたとはいえ、火力が弱く、送風できないので室内全体を暖められないのでほとんどの家庭にはないのが実情です。
ホームセンターや大型スーパーへ買いに走った人もいたようですが、何万戸分もの在庫をしているはずもなく、寒い中を自宅や様々な施設で、避難所で、毛布にくるまったり何重にも重ね着をして夜の寒さを凌いだそうです。
室蘭市内の病院も停電のため臨時休診を余儀なくされ、自家発電分は重症入院患者の生命維持のためにしか使えないとか。
予定されていた手術も中止せざるを得ず、また、診察予約を入れていた外来患者は、通院してきたけど受診できなかったとか。
停電でテレビからの情報も入手できなくなったお年寄りに、臨時休診の情報が伝わらなく、こういった状況になってしまったようです。
重く湿った雪と台風並みの猛烈な突風で送電線が切れ、送電線を保持する鉄塔が倒れてしまったのが停電の原因だそうで、北電が昨日から懸命に復旧作業をしているそうですが、昨日はまだ風が強すぎて作業がはかどらず停電が復旧していないようですし、完全復旧のめども立っていないとか。
一刻も早い復旧が望まれますね。

私の術後の話を書いていきます。
取りあえず手術は成功し一命取り留めた私は病棟のICUに移され、奥さんが帰宅してからは看護師と当直医師の厳重な監視下にいたんでしょう。
何時間経ったのか、何日経ったのか、麻酔が覚めて奥さんの声が聞こえた時には、ふと意識が戻って奥さんの顔が見えた事で安心してまた眠りについたようです。
その後もスタッフが色々と声をかけてくれてたようですが、意識が朦朧としていてはっきりとは覚えていません。
意識が戻ったり眠りについたりを繰り返し、目の前の壁にかかってた時計を見ても、それがいったい何日の何時を示しているのか理解できなかった。
ICUは、外界と遮断するように窓からの明かりは遮られていたので、意識が戻って時計を見た時に3時を示していても、それが夜中の3時なのか午後3時なのかが分からず、思考能力も低下していたのでただただ眠るしかなかったんです。
ICUにいる間の主治医からの説明で、「救命を優先してやったので、今とりあえず腸を外に出して・・・」という言葉が、かすかな意識の中でも突き刺さるように聞こえた。
『そうか、ストーマか・・・』
医療従事者である私にはその言葉の意味がすぐに飲み込めたし、ストーマ増設に対して承諾も拒否も、もうそうなってしまってるんだからと受け入れるしかなかったですね。
『ストーマ(ストマとも言う:stoma:私の場合は人工肛門)』
主治医はこの時、「ただ、機能は残してあるので、この後つないで元に戻す事を考えています」とも言っていたはず。
詳しい説明と、安心させてくれるような事を言ってくれたのはありがたいけど、まだはっきりしない意識の私に言葉のすべてを覚えておけと言う方が無理でしょ。
意識の浮沈を繰り返していて、ある瞬間に人の声が聞こえて目を覚ますと、目の前にマスクをした私の職場の院長の顔が見え、「大丈夫か?」と声をかけられたような、それに答えて自分の病状を説明しようとして院長に制止された自分がいたのは記憶にある。
朦朧とした意識の中で懸命に礼と謝罪の言葉を口にしようとしてたんですが、果たしてそれがちゃんと言葉になって伝わったのかも不明。
院長の次には外来看護主任の顔が、次に入ってきたのが事務長と看護師長だったのも覚えている。
不思議なんですが、この後色々な症状が出て騒がしてしまったんですが、それらが完全に落ち着いていつもの自分に戻るまで、母の声と言葉って全く記憶にないんですよ(^^ゞ
何度も心配して見舞いに来てくれたんでしょうし、何度も声掛けしてくれたんでしょうけど、全く覚えてないってどういう事なんだろうか?
話はちょっとそれますが、術後から病室に移されて、IVH(点滴です)、胃管カテーテル、腹部に入っていた体液の排液用ドレーン3本?、バルーンカテーテル、背中に入れてあったカテーテルなど、すべての「管」が全部取れるまで、痛みと言うのは一切感じませんでした。
後で知った事なんですが、手術直前に背中から入れられた腰椎麻酔のカテーテルから、術後も麻酔薬と麻薬が持続的に注入されていたんですね。
大きな手術の後は、病室で「痛い、痛い」と呻き続けるって言う昔のイメージがあったんですけど、今の時代はそんな辛い思いはしないさせないようでした。
ただ、その処置がこの後の私にとんでもない事態を引き起こす事になった、恐らくそれが原因の1つだったんだろうと思います。

「朝食」
・自家製パン
・きのこのポタージュスープ
・ハムエッグ

「昼食」
・かき揚げ天ぷらそば

「おやつ」
・野菜チップス(さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ、人参、いんげん、バナナ)

「夕食」
・ごはん
・大根のなた割漬
・豚汁(豚肉、突きコン、玉ネギ、ごぼう、豆腐、長ネギ、人参、大根)
・ナス卵ベーコンの炒め物

「デザート」
・シュークリーム

今日のBW:60kg
最高6.4(22:39)、最低 マイナス2.9(00:49)、積雪量ゼロ

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今日は、とんでもない天気でしたね。
夜中に何度も警報のメールが届き、午前8時半に起きた時には外は猛吹雪で、窓から先が見えない状況でした。
時間とともに雪と風がひどくなってきて、もの凄い雷まで鳴っていた。
テレビのL字情報で常に道内の状況を流していたけど、わが街には「暴風雪警報」が出ていました。
交通機関も大きく乱れていたようですし、道内の所によっては電線への着雪で停電になってる地域もあったようです。
真冬並みの寒気が上空に入ってると言ってましたが、今って冬じゃないんですか???

さて、今回入院して緊急手術になってしまった理由ですが、結論から言うと「S字結腸穿孔」と言う病名が理由でした。
先月17日の水曜日、いつものように出勤して、朝礼を終えてマイデスクに戻り、問屋に注文の電話をしていた最中に、「ズンッ」と腹部に衝撃が走り、激痛に襲われました。
その感じは以前にも経験がした事があるような気がしたんです。
年に数回起こる、結石が腎臓から降りてきて尿管内に留まってしまった時の衝撃と似てたんです。
だからその時もまたそうだろうと、それなら痛みはしばらくすれば治まるだろうと耐えていました。
助手はいつものように調剤の準備をして待っていてくれましたが、マイデスクの椅子に座ったまま動けなくて、こりゃだめだと外来処置室のベッドに寝かせてもらいました。
痛いんだから鎮痛剤と、尿管結石の時はそれが当然の処置なため、鎮痛剤の座薬を挿して横になっていたら、多少痛みが和らいできたんです。
そのうち若手のドクターが外来診療の合間を縫ってエコー検査をしてくれるように外来看護主任が用意をしてくれ、エコーで診てもらったんですが専門外の結石は見つけられず、関係のない肝臓を見て「脂肪肝ですね」って事で終わり。
この時、エコーの機械でもう少し下腹部を見ていたら危険な異常を発見できたかもしれないと、のちにこの若手ドクターは私に謝罪してくれました。
私が結石だと言ったものだから、皆の頭の中は結石の激痛としかインプットされてなく、それなら時間が解決するだろうと安心していたようです。
私も、自宅に戻って水分を一杯取って安静にしてると帰ろうとすると、看護師の誰かが「奥さんに来てもらうかい?」と聞いてきたんです。
私は大丈夫と言ったんですが、この時の私はすでに痛みに耐え過ぎて意識が朦朧(もうろう)としてたので、そんな事にはお構いなしで助手に片付けを指示し、着替えて帰り始めていました。
奥さんが職場から飛んできてくれたのは、職員玄関を出てすぐ。
私は、痛みのため前屈みでゆっくりしか歩けない状態だったのに、それでも1人で帰ろうとしていた。
自宅に戻っても激し痛みは治まらず、奥さんが大丈夫とか病院へ行こうかとか言ってくれてたのを、結石だからそのうち治まると思い込んでいたので、逆ギレして怒鳴ってしまったらしいが、意識が朦朧としていたので覚えてないんです。
実は結石じゃなかったので、自宅でも座薬を挿したんですが効く訳がない。
ただひたすらバカみたいに痛みに耐えていて、とうとう我慢できなくなった午後4時頃、奥さんに頼んで職場の若手ドクターに指示をもらっけてくれと頼みました。
この時はもう、どこかの病院へ運んでくれと思っていた。
多少の時間の後、職場から電話がかかって来て、総合病院の泌尿器科から受け入れると返事が来て、紹介状も書いたからそれを持って行きなさいと指示がありました。
職場に紹介状を取りに行って戻ってきた奥さん、タクシーを呼ぼうと電話をしたんですが、私はもうダメだと思って救急車を呼んでもらいました。
マンション玄関まで救急隊を迎えに行くと出て行った奥さん、うちの玄関のカギは掛けないで行くからと私に言って出て行ったんですが、奥さんも慌てていたんでしょう、救急隊を連れてきた時にカギを入れて回してしまい、カギをかけた状態にしてしまった。
こんなしょうもない事を覚えているってことは、この時はもうすぐ助かると意識が正気に戻っていたって事ですね(^^ゞ
と言っても、私は前屈みの座位のまま、痛い痛いとうめきながら脂汗を流していたんです。
救急隊のストレッチャーに乗せられても、ちょっとした衝撃で激痛が走り、そのたびに痛いっ!と叫んでいました。
救急車が動き始めても、道路の段差などのほんのちょっとした衝撃でも激痛。
救急救命士が、血圧が低いと言っていたのは聞こえました。
病院に到着したのは覚えています。
ストレッチャーのままレントゲン撮影、その後CT撮影したでしょうか。
しばらくしてどこかの部屋に運び込まれてしばらく放置状態。
何人ものドクターや看護師が入れ替わり立ち替わり私の元に来て、「大丈夫ですよ」と声をかけてくれたんですが、早く痛みを取ってくれとそれしか私の頭にはなかった。
そのうちあるドクターが来て、「あなたの状態は、結石じゃなくてちょっと大変な事になってるので緊急手術します」というのが朦朧とした意識の中で聞こえました。
そして、「ちょっと腸を外に出す事になるかもしれませんが、命を助ける事が優先ですから・・・」とうっすらと聞こえていました。
もうそんな状況では、蚊の泣くような声で「お願いします」と言うしかないですもんね。
別の医師らしき人が来て、「今、麻酔科の先生が来ますから、もうちょっと我慢してくださいね」と、何回か言われたような気がする。
すぐに私の周りに人がいなくなるので、奥さんを呼んでとも言えず、1人で耐えていた私だった。
どのくらい経ったか、行きますとゾロゾロと看護師連中が私の寝ていたストレッチャーを押し始め、エレベーターにのせて運び始めた。
段差の衝撃が痛くて、叫び続けていた私。
手術室に入りますと言う声が聞こえたような気がしたけど、奥さんの姿は見えず、その代わり弟の声が「おにい・・・」と聞こえたのは覚えている。
ひんやりした手術室で服を脱がされて、ストレッチャーから手術台にうつされた時がまた地獄の激痛。
女性麻酔科医が周りのスタッフに指示して私を横向きにし、「背中にちょっと痛みがありますよ」と言って腰椎麻酔の針を刺して管を入れたんですが、それより動かされた時の痛みの方が激しくて。
だんだん麻酔を入れられていったらしく、「・・・ミリ入りました」みたいな声がおぼろげに聞こえ、それから上半身を抱えられて押さえつけられ、「外れるような歯はありませんか?」と何度も聞かれたんですが、入れ歯じゃないからとそのたびに答えた。
「金属は身につけてませんか?」と看護師らしき人に聞かれ、かろうじて思い立ったのが指輪。
外れるかしらと言う声が聞こえたので、緩いからすぐ外れると答えたと思う。
指輪を外されたら、口を思いっきり開けられて、口から金属の器具を無理やり押し込んでいったんです。
気管内挿管の器具だったようですが、まだ意識があるのに思いっきり突っ込まれたので、苦しさと吐き気で体をよじって暴れようとしたけど、何人にも押さえつけられて動く事は出来ず、そのうち意識がなくなってしまったらしい。
とまあ、その日の事はここまで覚えています。
尿路結石だと思い込んでいたのが、実はS字結腸に穴が開いてそこから腸内容物(早い話がウンチ)が腹腔内にまき散らされていた事で、激痛に襲われていたようなんです。
最初の痛み止めの座薬が効いたのは、恐らくまだ大腸まで入って行けて、それが吸収されて多少痛みが和らいだんだと思います。
2回目の座薬は、もう腸の内容物がどんどん腹腔内に流れ出ていて、座薬自体も吸収されずに腹腔内に出てしまったんじゃないかと考えます。
病院に搬入されて、しばらく放置されていたのは、今から思えば外科病棟の処置室だったかも。
一緒に来ていた奥さんは、そこには入れてもらえず、遠く離れた談話室で待機していて下さいと看護師に言われてそこにいたと。
いつまで経っても呼ばれないし、私に合わせてもくれず、手術室に移された時でさえ何の報告もなくて会う事が出来なかったんだそうです。
弟は、談話室には行かずに手術室横の患者家族待機場所へ行った時に、私が目の前を運ばれて行ったそう。
だから弟だけが、手術室に入る直前の私に声をかけられたんだと思う。
いい加減な病院スタッフですよね。
入院中もそう思う事がたくさんありました・・・。
だいたい午後7時頃から手術が始まって、終わったのは4時間後くらいだったと。
いつ手術室から出てくるかも分からないので母を先に帰らせて、奥さんだけが待機していたそうですが、手術を終えた主治医が奥さんの目の前に現れて、見せたのが私から切り取った約1キログラムの腸で、「今夜がヤマです」と言ったそうです。
その前に、術前には「あと1時間遅かったら危なかった」、つまり、あと1時間病院に到着が遅れて診断が遅かったら、命の保証はできなかったという事だったらしいです。
そんなになるまでバカみたいに耐えてた私って、本当にバカですよね(^^ゞ
術後、外科病棟のICUに移された私に、しばらく付き添っていてくれた奥さん、こんなおバカな私で本当に申し訳なかったと、謝罪と感謝の言葉もありませんm(_ _)m

「朝食」
・ごはん
・具沢山味噌汁(キャベツ、椎茸、玉ネギ、揚げ、玉子)
・残り物

「昼食」
・にゅう麺(かき玉、椎茸、人参、長ネギ、小松菜)

「おやつ」
・シュークリーム
・野菜チップス

「夕食」
・鍋焼きうどん(卵、鶏つくね、椎茸、シメジ、舞茸、長ネギ)
・弟が退院祝い代わりに持ってきたパック寿司(つぶ、サーモン、サーモンいくら軍艦、とびっ子)

今日のBW:59.5kg
最高3.7(08:08)、最低 マイナス2.9(22:32)、積雪量5センチ

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午前10時半過ぎ、入院先の病院を退院しました。
年明けの1月、成人の日過ぎに再入院し、再手術が予定されているので、今日は一時退院と言う形で、まあ、出されたと言うのが本当のところです。
もう入院していても、医師の回診では傷口に当ててあるガーゼを交換するだけでしたし、体力もほぼ回復し、院内を歩いている姿は健康な人と変わらないとまで言われていたので、もっと早い退院でもよかったんですけどね自分としては。
今日までの入院費の支払いも済ませて、医師回診終了後にさっさと帰ってきました。
自宅に入ると、そこは別世界で、まるで自分のうちじゃないみたいでした。
今までずーっと懸案だった、ベッドとソファーがわが家の一員となっていたんです。
まあ、私の病状と退院後の自宅療養のために楽な生活をと、奥さんが家具屋などをかけずり回って決めてくれ、2日前に搬入されたばかりの新品の家具がそこにありました。
とりあえず一服して、まずは職場への顔出しに。
皆歓迎してくれて、薬局では医師の指導監督の元でと言う事で、正看護師の資格を持つ事務長が入院患者の調剤をしてくれていました。
院長は今日は外来担当なので、外来処置室で患者があくのを待ってご挨拶。
良かったと言ってくれたのは良いんですが、次の言葉に私は唖然としてしまいました。
「何?、まだ手術するのか」
「通院だけなら、半日・・・、2時間でも1時間でもいいから出てきて仕事をしてくれ」
「いるだけでも全然違うから、1時間でも座ってるだけでいいから」
「また入院するなら、外来看護主任にまた迷惑かけるんだし」と。
今の状況で、上手く仕事が回ってるし、私が出てきて手を出すと混乱するからと言っても聞く耳持たず。
私が不在だからという事で、代りをしてくれている外来看護主任が入院患者の薬の変更を極力断っているらしく、院長にしてみれば処方変更もままならず、新薬の採用処方もできず、内科医としての手腕を発揮できないのが気に入らないらしい。
1時間でもと言う事にして、思いっきり入院患者の処方を変更したいんでしょうが、それをやると動けない私が手伝ってくれている外来看護主任や事務長にあれこれ指図しなきゃならないでしょ。
せっかく厚意で代りをしてくれているスタッフに命令なんかできませんし、ここぞとばかりに大量に変更の指示が来たら、あれ買えこれ買えって事にもなって、事務員が代わってつけている帳簿もグチャグチャになると外来看護主任がボソッと言ってました。
パートの薬剤師を頼んだけど、短期間では来てくれる薬剤師がいなかったし、医師が調剤をしている事になってるが(処方医が自分の処方に基づいて調剤するのは法で認められている)、いかにも不自然だから出て来いと言うんです。
もう少し私の容態を気遣ってくれるかと思ったら、いつものように自己中な院長だった。
「まあ、そのうち考えてくれ」と、その言葉で終わり。
横で聞いていた外来看護主任が私を引っ張って行って、「何かあったらすぐ電話するから、心配しないで」と言ってくれたのには救われましたが、がっかりもしたし、怒りも込み上げてきたし、非常に不愉快な挨拶回りだった。
傷はガーゼ交換だけとはいえ、交換しなければならない程度にまだ完全には塞がってなく、傷口からはまだ「ツユ」が出てる状態なんです。
腹部には何か所も傷口があり、何か所も縫った跡があって、それらが引きつって姿勢を正していると30分も持たずに腹筋に鋭い痛みが走るし、今日だって職場から帰宅したら傷を含む腹筋部全体が痛くなって、背を丸めて腹部を緩めてないと痛みで辛くてたまらない状態なんです。
腹部の外科手術を経験した事がない院長には、その状況がどういうものかなんて想像もできないでしょうね。
「血液の検査データはどうなんだ?」とも聞いてきましたが、内科医の院長には外科処置後の状況より内科的検査しか興味がないんでしょう。
外科に入院してたんですから、術後すぐにしか血液検査なんかしてませんし、その時の肝機能などの生化学的検査の数値なんか、外科医は逆に興味がないようで教えてもくれませんでした。
その後に全く内科的治療もなかったと言う事は、さほど大した検査値でもなかったという事でしょ。
自宅での生活に全く問題はなかったものの、自分の職場へ行ったわずか30分程度だけでもの凄く疲れてしまいました。
一時的とはいえせっかくの退院が、嬉しくも目出度くもなくされてしまったと言うのが今日の感想でした。

「朝食」(病院食)
・どんぶりごはん
・麩の味噌汁
・玉子焼き3切れ(業務用)
・青菜と魚肉ソーセージの炒め物

「昼食」(これ以降は自宅で)
・カップヌードル焼きそば

「おやつ」
・生八つ橋

「夕食」(ケータリング)
・ピザ(オマールソースの本ズワイ蟹、イベリコ&四元豚)

「空腹凌ぎ」
・スナック菓子

昼食後のBW:61.5kg
最高6.2(11:59)、最低0.3(05:10)、積雪量2センチ

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昨夜は午後10時に布団に入ったんですが、なかなか寝付けず、1時間以上も布団の中でゴロゴロしてました。
何度もトイレに行ったし・・・。
午前5時にトイレに行って戻って来て、寒かったのでストーブを点けた。
それで安心したのか、3時間ほど爆睡して、起きたのは午前8時。
奥さんも、もう30分と言ってたけど、つられて起きてきちゃいました。
午前9時過ぎに朝食。
今日は、奥さんが夜勤なので、午後2時までに病院に戻る事にしてたので、ちょっと落ち着かなかった。

あと3晩病院のベッドで寝れば、いよいよ月曜の午前には退院です!
実際の所、昨日退院でも、週明けの月曜退院でも、私としては何も変わらないと思ってるんですけど、ドクターがそう言うからそれに従っただけ。
まあ、逆らうのも何なので、大人しくあと3日辛抱しますけど。

「朝食」(自宅で)
・ごはん
・ハムソテー
・スクランブルエッグ
・たらこの子和え
・鮭缶マヨ

「昼食」(自宅で)
・メンチカツサンド
・カフェラテ

「夕食」
・病院食

今朝のBW:60kg

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今日もドクターの勧めに従って、退院前の再外泊で自宅に帰ってきました。
奥さんが早出勤務だったので、仕事が終わってすぐタクシーに飛び乗り、午後4時前に病院に到着し、着替えてすぐ帰ってきました。
外は寒かったけど、雪は降っていなかったのは幸い。
ひと休みがのんびりしちゃって、入浴は午後6時前。
病院の夕食は午後6時からなんだけど、今夜はゆっくり午後7時前でした。
就寝も、病院は午後9時だけど、ひさしぶりに夜更かし?して、午後10時までテレビを見て、マイ布団でお休み。
次ぎ帰ってきた時には、布団の生活は終了し、ベッドが入ってるので、マイ布団とは今夜でお別れ。
長い事ありがとうと布団に言ってみた;

「朝食」
・病院食

「昼食」
・病院食

「夕食」(自宅で)
・味噌ラーメン(玉ネギ、キャベツ、人参、ひき肉)

「デザート」
・生八つ橋(いちご:母からの京都土産)

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性別:
男性
趣味:
食べる事、旅行、飛行機関連
自己紹介:
某医療機関に勤務する、メタボな食いしん坊です。
もともと民間旅客機・軍用機を含む航空機全般が好きでしたが、2006年の4月から陸マイラー(時々空マイラー)生活を始めた、もっぱらJALマイラーです。

   保有JALマイル
合算:76,381マイル
私の分:76,381マイル
奥さん分:0マイル
2021年2月15日現在

マイル使用歴
2009/1/15:40,000マイル
2010/1/11:50,000マイル
2011/1/15:70,000マイル
2011/11/1:60,000マイル
2012/9/10:40,000マイル
2015/1/17:100,000マイル
2017/1/12:10,000マイル
2018/4/23:30,000マイル
2018/10/20:50,000マイル
2019/10/31:15,000マイル
2019/12/15:35,000マイル
2020/6/18:20,000マイル
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