管理人の食卓風景と日常の日記
昨日の今日ですから、今週は有休扱いにしてもらい、父が元気な間は朝だけ出勤して、やっておかなければならない事だけ済ませて大学病院に向かおうと考え、出勤しました。
出勤後すぐに各方面に話をし、もちろん院長・師長・外来看護主任にも、さらに、今週金曜は夜間急病センターの出向日でしたが、この状況では行けそうもない事から責任者に連絡を取り、事情を話して代わってもらう事をお願いしました。
ほぼ手配しなければならない事は済ませ、ある程度になったら帰宅し、今日休みの奥さんと大学病院の父のもとに行こうと考えていた午前9時過ぎ、母から職場に電話があり、大学病院から電話が来て、昨夜は持ったが今日は持たないかもしれないので家族は病院に来てほしいとの事。
すぐに外来看護主任に「大学病院から連絡が来たので行くからお願い」と言い残して、取るものも取り敢えず帰宅し、自分に落ちつけと言い聞かせて必要な物をショルダーに詰め込み、火の元の始末を確認し、タクシーに乗って奥さんと大学病院に向かいました。
母は弟を拾って、別のタクシーで大学病院に。
およそ50分ほどで到着し、母と弟も5分ほど遅れて到着。
すぐにICUに向かうと父の弟が待っており、全員で中へ入って父を見ると全身黄疸で黄色くなり、手を触っても握り返すこともなく、皮膚は弾力がなくまるでビニールのよう。
声をかけても返事はなく、安らかに眠ったまま。
呼吸は全く苦しさを感じていない様子でしたが、モニターを見ると血圧は44の22。
医師団の2名がいて、説明と言うよりもうこれ以上は・・・との話に終始。
皆で声をかけて、家族の待機部屋へ。
その後親戚が次々と訪れるも、父の変化はなく時間が過ぎ、昼食を飲み込んでまた待機部屋へ戻るを繰り返す。
夕方、若干血圧が変化し、手先にチアノーゼが見られ始め瞳孔も開き始めているとの看護師のからの説明あり。
これは長期戦を覚悟しようと考え、また待機部屋で沈黙。
午後6時頃、父の様子を見にICUに入ると血圧が若干上がっているような。
おいおい、さすがは我が親父!
もしかしてまた回復するんじゃないかとの期待を持って待機し、無理やり私達、母、弟が院内のコンビニで買ってきた物を食べ、弟の嫁がようやく到着したところで再度父を見に行くと、まだ安定しているよう。
手を触ってみると、家族の欲目かも知れませんが、チアノーゼも消え手に弾力が戻ってきたように感じました。
事前に母と話していたように、今後の事もあるし、この様子なら今夜も大丈夫そうだと言う事で、看護師に帰宅したいと母が言いました。
主治医を呼びますからと看護師が答え、すぐ主治医がやって来てその旨を母が言うと、最期の瞬間までいて欲しいようなそぶりで答えを渋っている様子。
午後7時半、今日1日ずっと家族で父のそばにいて納得したし、もう会話もできない状況でこれ以上何もしてあげられないから、この後夜中にもしもの事があっても家族としては何も言わないと母が主治医に言い、連絡が来たらすぐに駆けつけると言う事で了解を取り、帰宅する事にしました。
最期の時は、まず母に連絡をし、母と私達兄弟が到着した時点で宣告をしますとの主治医からの提案を受け、それではお願いしますと帰宅しました。
午後10時半現在、連絡はありません。
父の事です、まだまだ、そう簡単には逝かないと頑張っているものと思います。
帰宅に際し、各自宅まで送ってくれた父の弟も、「さすがはアニキだ」と。
このあと、どのような展開になるか分かりませんが、とりあえず明日も私と奥さんは休みを取り、朝イチで父の元に行こうと思っています。
帰宅の際、主治医に私が「また明日来ますのでよろしくお願いします」と言うと、苦笑いしていたのが印象的でした。
今日中にはと言っていた見込みが外れそうなのと、私達がまだあきらめていない事と、父の生命力に脱帽といった感じだったんでしょう。
いずれ来るべき時は来るでしょうが、1分1秒でも、願わくば奇跡が起きて欲しいと、家族としての祈りが通じてくれれば。
「朝食」
・ミックスサンド
・野菜ジュース
「昼食」(病院内レストラン)
・五目ピラフ
・アイスコーヒー
「病院内で」
・ボトルコーヒー
・炭酸飲料
「夕食」(ICU家族待合室で)
・焼豚つけめん味噌味
・おにぎり(たまごかけごはん風)
「一旦帰宅し」
・焼酎のウーロン茶割り
今日のBW:70kg
出勤後すぐに各方面に話をし、もちろん院長・師長・外来看護主任にも、さらに、今週金曜は夜間急病センターの出向日でしたが、この状況では行けそうもない事から責任者に連絡を取り、事情を話して代わってもらう事をお願いしました。
ほぼ手配しなければならない事は済ませ、ある程度になったら帰宅し、今日休みの奥さんと大学病院の父のもとに行こうと考えていた午前9時過ぎ、母から職場に電話があり、大学病院から電話が来て、昨夜は持ったが今日は持たないかもしれないので家族は病院に来てほしいとの事。
すぐに外来看護主任に「大学病院から連絡が来たので行くからお願い」と言い残して、取るものも取り敢えず帰宅し、自分に落ちつけと言い聞かせて必要な物をショルダーに詰め込み、火の元の始末を確認し、タクシーに乗って奥さんと大学病院に向かいました。
母は弟を拾って、別のタクシーで大学病院に。
およそ50分ほどで到着し、母と弟も5分ほど遅れて到着。
すぐにICUに向かうと父の弟が待っており、全員で中へ入って父を見ると全身黄疸で黄色くなり、手を触っても握り返すこともなく、皮膚は弾力がなくまるでビニールのよう。
声をかけても返事はなく、安らかに眠ったまま。
呼吸は全く苦しさを感じていない様子でしたが、モニターを見ると血圧は44の22。
医師団の2名がいて、説明と言うよりもうこれ以上は・・・との話に終始。
皆で声をかけて、家族の待機部屋へ。
その後親戚が次々と訪れるも、父の変化はなく時間が過ぎ、昼食を飲み込んでまた待機部屋へ戻るを繰り返す。
夕方、若干血圧が変化し、手先にチアノーゼが見られ始め瞳孔も開き始めているとの看護師のからの説明あり。
これは長期戦を覚悟しようと考え、また待機部屋で沈黙。
午後6時頃、父の様子を見にICUに入ると血圧が若干上がっているような。
おいおい、さすがは我が親父!
もしかしてまた回復するんじゃないかとの期待を持って待機し、無理やり私達、母、弟が院内のコンビニで買ってきた物を食べ、弟の嫁がようやく到着したところで再度父を見に行くと、まだ安定しているよう。
手を触ってみると、家族の欲目かも知れませんが、チアノーゼも消え手に弾力が戻ってきたように感じました。
事前に母と話していたように、今後の事もあるし、この様子なら今夜も大丈夫そうだと言う事で、看護師に帰宅したいと母が言いました。
主治医を呼びますからと看護師が答え、すぐ主治医がやって来てその旨を母が言うと、最期の瞬間までいて欲しいようなそぶりで答えを渋っている様子。
午後7時半、今日1日ずっと家族で父のそばにいて納得したし、もう会話もできない状況でこれ以上何もしてあげられないから、この後夜中にもしもの事があっても家族としては何も言わないと母が主治医に言い、連絡が来たらすぐに駆けつけると言う事で了解を取り、帰宅する事にしました。
最期の時は、まず母に連絡をし、母と私達兄弟が到着した時点で宣告をしますとの主治医からの提案を受け、それではお願いしますと帰宅しました。
午後10時半現在、連絡はありません。
父の事です、まだまだ、そう簡単には逝かないと頑張っているものと思います。
帰宅に際し、各自宅まで送ってくれた父の弟も、「さすがはアニキだ」と。
このあと、どのような展開になるか分かりませんが、とりあえず明日も私と奥さんは休みを取り、朝イチで父の元に行こうと思っています。
帰宅の際、主治医に私が「また明日来ますのでよろしくお願いします」と言うと、苦笑いしていたのが印象的でした。
今日中にはと言っていた見込みが外れそうなのと、私達がまだあきらめていない事と、父の生命力に脱帽といった感じだったんでしょう。
いずれ来るべき時は来るでしょうが、1分1秒でも、願わくば奇跡が起きて欲しいと、家族としての祈りが通じてくれれば。
「朝食」
・ミックスサンド
・野菜ジュース
「昼食」(病院内レストラン)
・五目ピラフ
・アイスコーヒー
「病院内で」
・ボトルコーヒー
・炭酸飲料
「夕食」(ICU家族待合室で)
・焼豚つけめん味噌味
・おにぎり(たまごかけごはん風)
「一旦帰宅し」
・焼酎のウーロン茶割り
今日のBW:70kg
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昨夜の送別会、何故か院長を含めたドクター3人も出席;
一番若いドクターは、お子さんが熱を出したのと、今週は1度も家に帰っていないとかで、顔だけ出してさっさと帰宅。
2次会へ突入し、院長はベロベロに酔っぱらって、2次会終了で帰宅。
最後に残った中堅ドクターが、3次会へ行こうと女性陣に声をかけ出したので、こりゃマズイと思い、外来看護主任と受付事務のリーダー格の女性の背中を押して、決してドクターの方を振り向かず、私がいつも行ってるスナックに避難させました。
私も結構来ていたので、奥さんを呼びだし、これで帰りの心配はないと。
いつも世話になってる2人でしたから、昨夜の私は彼女達の接待役に徹し、とにかく間を開けないように次から次へと知ってそうな曲を入れて、彼女達のストレス発散カラオケ大会となりました。
結局みこしを上げたのは午前2時頃だったかな;
彼女達は今日も仕事なのに、まあ元気だった事。
私は休みでしたが、父の見舞いに行かなければ・・・、起きられない!
予定より1時間以上も遅れて何とか布団から這い出し、まだ酔いが残った状態で札幌へ向かいました。
ICUに入ると、母が言っていたように気管切開され、気管カニューレが装着されていました。
ちょうど昼過ぎだったので、鼻から入れられている胃管カテーテルから経腸栄養剤が注入されていました。
見たところ呼吸は苦しそうでもない様子。
声をかけると目を開け、私と奥さんが名前を言うとうなずいてくれました。
肝機能低下のせいか、顔色はやや黄色っぽく見え、目も濁った様な若干黄色っぽい様な。
私達と目が会ったかと思ったら、またすぐ目を閉じてしまいましたが、呼びかけにはすぐ反応はしてくれました。
でも、感動しましたねぇ。
よくぞここまで復活してくれたと!
急変当初は、薬も効かず手の施しようもなかったことから、もう今すぐにも最後のお別れをとドクターから言われていたようなものでした。
運はまだ父を見放していなかった。
このまま、更に少しづつでも快方に向かってくれれば。
そんな事を祈りながら、あまり長い時間話しかけても本人も辛いだろうからと、すぐにICUから退室してきました。
残念ながら、まだまだそう簡単には死なせませんからね(^^)
「昼食」(札幌の回転寿司店)
・活つぶ、マグロ、赤貝、ズワイ、イクラ、穴子、イカゲソ、白魚軍艦、うに、ホッキ、納豆巻き
・中生(迎い酒ですね(^^ゞ)
「夕食」
・米菓子など
・焼酎のウーロン茶割り
・ペッパーベーコンエッグ丼
今日のBW:70kg
一番若いドクターは、お子さんが熱を出したのと、今週は1度も家に帰っていないとかで、顔だけ出してさっさと帰宅。
2次会へ突入し、院長はベロベロに酔っぱらって、2次会終了で帰宅。
最後に残った中堅ドクターが、3次会へ行こうと女性陣に声をかけ出したので、こりゃマズイと思い、外来看護主任と受付事務のリーダー格の女性の背中を押して、決してドクターの方を振り向かず、私がいつも行ってるスナックに避難させました。
私も結構来ていたので、奥さんを呼びだし、これで帰りの心配はないと。
いつも世話になってる2人でしたから、昨夜の私は彼女達の接待役に徹し、とにかく間を開けないように次から次へと知ってそうな曲を入れて、彼女達のストレス発散カラオケ大会となりました。
結局みこしを上げたのは午前2時頃だったかな;
彼女達は今日も仕事なのに、まあ元気だった事。
私は休みでしたが、父の見舞いに行かなければ・・・、起きられない!
予定より1時間以上も遅れて何とか布団から這い出し、まだ酔いが残った状態で札幌へ向かいました。
ICUに入ると、母が言っていたように気管切開され、気管カニューレが装着されていました。
ちょうど昼過ぎだったので、鼻から入れられている胃管カテーテルから経腸栄養剤が注入されていました。
見たところ呼吸は苦しそうでもない様子。
声をかけると目を開け、私と奥さんが名前を言うとうなずいてくれました。
肝機能低下のせいか、顔色はやや黄色っぽく見え、目も濁った様な若干黄色っぽい様な。
私達と目が会ったかと思ったら、またすぐ目を閉じてしまいましたが、呼びかけにはすぐ反応はしてくれました。
でも、感動しましたねぇ。
よくぞここまで復活してくれたと!
急変当初は、薬も効かず手の施しようもなかったことから、もう今すぐにも最後のお別れをとドクターから言われていたようなものでした。
運はまだ父を見放していなかった。
このまま、更に少しづつでも快方に向かってくれれば。
そんな事を祈りながら、あまり長い時間話しかけても本人も辛いだろうからと、すぐにICUから退室してきました。
残念ながら、まだまだそう簡単には死なせませんからね(^^)
「昼食」(札幌の回転寿司店)
・活つぶ、マグロ、赤貝、ズワイ、イクラ、穴子、イカゲソ、白魚軍艦、うに、ホッキ、納豆巻き
・中生(迎い酒ですね(^^ゞ)
「夕食」
・米菓子など
・焼酎のウーロン茶割り
・ペッパーベーコンエッグ丼
今日のBW:70kg
ようやくウザい雨も上がって、昼間ちょっとお日様が顔を出してました。
でも、気温は10℃そこそこ。
春というにはまだ朝晩は寒過ぎます。
朝はもちろん、今夜は3年勤めた事務員の送別会で外出しましたが、薄着などとんでもない寒さ。
ジャケットを着込んで、中から温めても外に出た瞬間に、寒っ!
真冬のように一瞬にして酔いも覚めてしまうとまでは行かないまでも、すぐに行動しなければ足元から底冷えがして、「急ぎ、トイレへ」ってな事になりそうな、5月中旬の北海道の夜です。
私は今夜送別会、母は病院から戻ってから美容室へと、お互いに時間が合わないので、今日の父の状況報告はなしにしました。
特別悪化したとか、ようやく会話ができたとか、何か重大な変化があった場合には連絡をくれるように頼みましたが、母も毎日私への連絡がストレスになっているかもしれませんし、そろそろ父の状態も快方へ向かいつつあって、今すぐ急を要する状況からは脱したことから、変わった事があったらと言う条件で連絡をもらうようにしようかと考えています。
油断を許さない状況にあるのは変わりないんですが、父を取り巻く医師団やその他の医療スタッフのおかげで、急変時の適切な対処が功を奏し、早10日以上も生き長らえていられます。
明日、奥さんとまた父を見舞う事にしていますが、呼吸をしている父の姿を見るだけでも、何かこう心の中で安心すると言うか、ここまで来たんだからもっと頑張ろうと、無茶かもしれませんがそんな声をかけてあげたくなります。
「朝食」
・ごはん
・漬物
・シジミの味噌汁
・焼鮭
・納豆半パック
・ボイルドシャウエッセン
「昼食」
・とんこつラーメン
・ライス
「夕食」(もつ鍋屋で送別会)
・もつ鍋(もつ、ニラ、キャベツ、フライドガーリック、タカの爪:味噌味)
・鍋の〆にちゃんぽん麺
・豆腐サラダ
・私は食べませんでしたがサーモンの刺身、チキン南蛮、柚子シャーベット、店長からのサービスで茹でたてズワイガニ
・中生3杯
・泡盛ロック3杯
「2次会、3次会」(スナック)
・ウイスキーの水割り
今日のBW:70kg
でも、気温は10℃そこそこ。
春というにはまだ朝晩は寒過ぎます。
朝はもちろん、今夜は3年勤めた事務員の送別会で外出しましたが、薄着などとんでもない寒さ。
ジャケットを着込んで、中から温めても外に出た瞬間に、寒っ!
真冬のように一瞬にして酔いも覚めてしまうとまでは行かないまでも、すぐに行動しなければ足元から底冷えがして、「急ぎ、トイレへ」ってな事になりそうな、5月中旬の北海道の夜です。
私は今夜送別会、母は病院から戻ってから美容室へと、お互いに時間が合わないので、今日の父の状況報告はなしにしました。
特別悪化したとか、ようやく会話ができたとか、何か重大な変化があった場合には連絡をくれるように頼みましたが、母も毎日私への連絡がストレスになっているかもしれませんし、そろそろ父の状態も快方へ向かいつつあって、今すぐ急を要する状況からは脱したことから、変わった事があったらと言う条件で連絡をもらうようにしようかと考えています。
油断を許さない状況にあるのは変わりないんですが、父を取り巻く医師団やその他の医療スタッフのおかげで、急変時の適切な対処が功を奏し、早10日以上も生き長らえていられます。
明日、奥さんとまた父を見舞う事にしていますが、呼吸をしている父の姿を見るだけでも、何かこう心の中で安心すると言うか、ここまで来たんだからもっと頑張ろうと、無茶かもしれませんがそんな声をかけてあげたくなります。
「朝食」
・ごはん
・漬物
・シジミの味噌汁
・焼鮭
・納豆半パック
・ボイルドシャウエッセン
「昼食」
・とんこつラーメン
・ライス
「夕食」(もつ鍋屋で送別会)
・もつ鍋(もつ、ニラ、キャベツ、フライドガーリック、タカの爪:味噌味)
・鍋の〆にちゃんぽん麺
・豆腐サラダ
・私は食べませんでしたがサーモンの刺身、チキン南蛮、柚子シャーベット、店長からのサービスで茹でたてズワイガニ
・中生3杯
・泡盛ロック3杯
「2次会、3次会」(スナック)
・ウイスキーの水割り
今日のBW:70kg
ん~、ヒマですねぇ~。
私自身もですが、病院の外来がヒマヒマヒマ。
午前中はポツポツ患者が来ますけど、午後はさっぱり。
連休が明けてからが特にひどい。
月曜の午後なんて、来院患者数3名ですと。
今日は午前中も待合室には、冷たい風がピュ~っと吹いてただけ;
薬屋も最近全然来ませんし、話し相手もなくやる事もなくホントにヒマ。
先月末分の決算用棚卸しリストも提出してしまったし、今年の新人助手は1名がプライベートに問題はあっても、仕事はテキパキやってくれてるので心配はない様子。
もう1人の方は、相変わらずマイペースですけど、まあそこそこ理解力もあり、懸命にもう1人について行こうとする姿勢は見られるので、これもまた様子見という事で。
結果として、2人が私の指示通りに仕事をこなせているので、午後私が間に合わない部分を補う必要も今の所はなく、午後の私はプー太郎状態なんです。
仕方がなく、本当に仕方がなくですよ、携帯ゲーム機をこっそり開いてクリアに向けて勤しんでいますけどね(^^ゞ
その位しかやる事ないんですよ。
毎日午後を有休にしても、全然差し支えないくらい。
マジで休んじゃおうかな・・・、な~んてね(^^ゞ
母からの連絡。
今日はまた少し呼吸が荒くなったと。
痰の量も多く、頻回の吸引が必要だそうです。
看護師が大きな声で呼びかけるとうなずくが、手を握っても今日は握り返してこず、目も閉じたままだったそう。
毎日少しずつでも良い方向へ来ていたのに、今日は1歩後退と言った感じでちょっとがっかりしたと母。
まあ、一進一退を繰り返してでも、良い方向へ行きついてくれればそれで御の字でしょう。
痰の量が多いと母は心配していますが、肺がほとんどやられてしまった時は痰などこれっぽちも出なかったはず。
正常な細胞がなかったんですから、痰を作って異物などを排出する機能すらその時はなかったと言う事。
それが、痰がでてきたという事は、正常な細胞ができてきている証拠ですから、父はもちろん見ている母も苦しそうに感じるのは仕方がない事です。
それ即ち、回復してきている証ですから。
看護師の話では、早ければ今日、遅くとも明日には気管から管を抜いて、気管切開して気管カニューレを装着するんじゃないかと。
さもなければ、週末土日にかかってしまうので、もしもの場合を想定して今日明日中には行うんじゃないかという事でした。
ちょっとがっかりして帰って来た母、何故か寿司が食べたくなったそうで、父と普通の生活をしていた時は寿司と言うとスーパーのパックに入った冷たい寿司でしたが、1人で食べるには冷たいのは嫌だと。
かと言って母の友人から誘われていたけど、落ち込んだ気持ちで会うのも嫌だったとかで、夕方1人でタクシーを飛ばし回転寿司屋へ行き、ちょっとつまんでビールを飲んでまたタクシーで帰って行ったそうです。
寿司代はしめて1,300円程度だったけど、往復のタクシー代だけで3,000円以上もかかってしまったと笑っていました。
毎日病院へ通って、心配して一喜一憂して、1人寂しく夜を迎えるのも辛いんでしょう。
だったらちょっと言って誘ってくれれば、仕事が終わったらすぐにでも飛んで行って相手してあげたのに;
夜、母の妹の叔母から電話があり、母の事が心配だから励ましてねなどと言われましたが、言われなくても分かってるっちゅうの!
余計な心配、ある意味大きなお世話!母の性格は息子として良く知ってます!
今はまだ気が張ってるから、余計な心配は無用。
気を使ってあげるのは、緊張の糸が切れてからです。
「朝食」
・自家製落花生パン
・ハムステーキ
・野菜ジュース
「昼食」
・海老天うどん牛肉入り
・鮭おにぎり2個
「夕食」
・筑前煮(筍、ごぼう、人参、椎茸、こんにゃく、鶏肉)
・焼酎のウーロン茶割り
今日のBW:70kg
私自身もですが、病院の外来がヒマヒマヒマ。
午前中はポツポツ患者が来ますけど、午後はさっぱり。
連休が明けてからが特にひどい。
月曜の午後なんて、来院患者数3名ですと。
今日は午前中も待合室には、冷たい風がピュ~っと吹いてただけ;
薬屋も最近全然来ませんし、話し相手もなくやる事もなくホントにヒマ。
先月末分の決算用棚卸しリストも提出してしまったし、今年の新人助手は1名がプライベートに問題はあっても、仕事はテキパキやってくれてるので心配はない様子。
もう1人の方は、相変わらずマイペースですけど、まあそこそこ理解力もあり、懸命にもう1人について行こうとする姿勢は見られるので、これもまた様子見という事で。
結果として、2人が私の指示通りに仕事をこなせているので、午後私が間に合わない部分を補う必要も今の所はなく、午後の私はプー太郎状態なんです。
仕方がなく、本当に仕方がなくですよ、携帯ゲーム機をこっそり開いてクリアに向けて勤しんでいますけどね(^^ゞ
その位しかやる事ないんですよ。
毎日午後を有休にしても、全然差し支えないくらい。
マジで休んじゃおうかな・・・、な~んてね(^^ゞ
母からの連絡。
今日はまた少し呼吸が荒くなったと。
痰の量も多く、頻回の吸引が必要だそうです。
看護師が大きな声で呼びかけるとうなずくが、手を握っても今日は握り返してこず、目も閉じたままだったそう。
毎日少しずつでも良い方向へ来ていたのに、今日は1歩後退と言った感じでちょっとがっかりしたと母。
まあ、一進一退を繰り返してでも、良い方向へ行きついてくれればそれで御の字でしょう。
痰の量が多いと母は心配していますが、肺がほとんどやられてしまった時は痰などこれっぽちも出なかったはず。
正常な細胞がなかったんですから、痰を作って異物などを排出する機能すらその時はなかったと言う事。
それが、痰がでてきたという事は、正常な細胞ができてきている証拠ですから、父はもちろん見ている母も苦しそうに感じるのは仕方がない事です。
それ即ち、回復してきている証ですから。
看護師の話では、早ければ今日、遅くとも明日には気管から管を抜いて、気管切開して気管カニューレを装着するんじゃないかと。
さもなければ、週末土日にかかってしまうので、もしもの場合を想定して今日明日中には行うんじゃないかという事でした。
ちょっとがっかりして帰って来た母、何故か寿司が食べたくなったそうで、父と普通の生活をしていた時は寿司と言うとスーパーのパックに入った冷たい寿司でしたが、1人で食べるには冷たいのは嫌だと。
かと言って母の友人から誘われていたけど、落ち込んだ気持ちで会うのも嫌だったとかで、夕方1人でタクシーを飛ばし回転寿司屋へ行き、ちょっとつまんでビールを飲んでまたタクシーで帰って行ったそうです。
寿司代はしめて1,300円程度だったけど、往復のタクシー代だけで3,000円以上もかかってしまったと笑っていました。
毎日病院へ通って、心配して一喜一憂して、1人寂しく夜を迎えるのも辛いんでしょう。
だったらちょっと言って誘ってくれれば、仕事が終わったらすぐにでも飛んで行って相手してあげたのに;
夜、母の妹の叔母から電話があり、母の事が心配だから励ましてねなどと言われましたが、言われなくても分かってるっちゅうの!
余計な心配、ある意味大きなお世話!母の性格は息子として良く知ってます!
今はまだ気が張ってるから、余計な心配は無用。
気を使ってあげるのは、緊張の糸が切れてからです。
「朝食」
・自家製落花生パン
・ハムステーキ
・野菜ジュース
「昼食」
・海老天うどん牛肉入り
・鮭おにぎり2個
「夕食」
・筑前煮(筍、ごぼう、人参、椎茸、こんにゃく、鶏肉)
・焼酎のウーロン茶割り
今日のBW:70kg
母からの連絡。
昨日の段階で、催眠鎮静剤を止めて状態を見て気管内の挿管も抜去すると言っていましたが、今朝母が行った時にはまだ管は入ったままだったそうです。
ただ、催眠鎮静剤の投与はすでに停止してあり、声かけにちょっと反応して頭を動かしたとの事。
まだ言葉の意味は分かっていないようで、リアクションはそれだけだったようですが、とにかくまた1歩前進。
ところがドクターの説明によると、催眠鎮静剤の投与を止めてもなお気管に挿管したままの場合、通常ならば異物感・違和感でひどく咳込んだり苦しんだりするものだそうですが、父の場合は何の訴えも示していないのが問題だと。
朝起きたらいつの間にか口から管を入れられていたら、普通の人ならまず払いのけようとか、抜いてくれと訴えるでしょう。
ところが、今日の父の場合、何の反応もないのがおかしいと。
とりあえず、午後3時から肺と脳のCTを撮ってみると言われたそうですが、朝早い時間の話だったため母もそこまでは病院にいられないので、明日ドクターに説明してもらう事をお願いして帰ってきたそうです。
この話を聞いた私に浮かんだ事、もしかすると最初の呼吸困難の段階での低酸素脳症。
ただ父の場合、急変してから個室に移されICUへ移されるまでに約半日、この時も苦しいと訴えてはいたようですが意識レベルがどうこうという事はなかったはずです。
そして、ICUに移されからおよそ6時間程度で、私に直接ドクターから催眠鎮静剤の使用と気管内挿管の許可を求める電話が来ました。
その間もかなり強い圧をかけて酸素マスクから酸素を送っていたはずなので、低酸素脳症に陥った可能性はないはず。
むろん、催眠鎮静剤を使っている間は24時間体制でモニターされ、管理されていましたから血中酸素濃度が下がればすぐに気管内の管へ送る酸素量を上げて対処したでしょう。
次に浮かんだのは、ほぼ1週間強制的に睡眠状態にされていた事による、認知症の発生?
いわゆる「ボケ」になってしまったんじゃないかと・・・;
認知症の発症原因は、いまだ完全に解明されたとは言えませんし、極度のストレスから発症する可能性もない訳ではない。
呼吸困難からくる極度の死への恐怖と闘った後ですから、まったくその可能性がないとも言い切れない部分がありますし、この場合は脳のCTを撮ってみても判断がつかないでしょう。
3つ目に浮かんだ事、それはこの催眠鎮静剤の影響がいまだ切れていないと言う事。
母が言うには、投与中止からかなりの時間が経ってるとドクターが言ってたそうですが、恐らくこの薬剤を使ったんだろうと思われる薬剤の添付文書の【集中治療における人工呼吸中の鎮静】での基本的注意に、「持続投与期間が24時間を超える場合は、覚醒が遅延することがあるので、十分な患者管理のできる状態で使用すること」との記載があります。
父の場合、24時間どころじゃなく、昨夜中止したとしても160時間以上も投与してたわけですから。
しかも、肝障害患者では「代謝・排泄が遅延し、作用が強く又は長くあらわれるおそれがある」とあり、体に入った薬が半分に減るのも健康な人に比べて2.5倍の時間がかかるとの結果が出ています。
つまり、普通なら投与を止めてから半日で意識がはっきりする所、父の場合は1日半は覚醒が遅延してもおかしくはないと言うことにもなります。
まあ、明日母が行って父の様子を見てみればはっきりするでしょうし、もし別の何らかの、例えば脳に異常が出たとなればドクターから説明があるでしょう。
もうダメと医師から告げられたに等しい状態から、ここまで回復してきた強靱な父です。
早いとこ意識を取り戻して、「何だこれはっ!、さっさと抜けっ!」と怒り狂って欲しいなと。
今度私達がお見舞に行く土曜日には、数日前の急変する直前と同じように冗談を言って笑えるような気がして、とにかく今はそうできる事を祈っています。
「朝食」
・自家製パン
・オニオンスープ
・ハムエッグ
「昼食」
・正油ワンタン麺
・おにぎり(明太子)
「夕食」
・カレーうどん大盛り(鶏肉、玉ねぎ、人参、じゃがいも、舞茸、長ネギ)
今日のBW:70.5kg
昨日の段階で、催眠鎮静剤を止めて状態を見て気管内の挿管も抜去すると言っていましたが、今朝母が行った時にはまだ管は入ったままだったそうです。
ただ、催眠鎮静剤の投与はすでに停止してあり、声かけにちょっと反応して頭を動かしたとの事。
まだ言葉の意味は分かっていないようで、リアクションはそれだけだったようですが、とにかくまた1歩前進。
ところがドクターの説明によると、催眠鎮静剤の投与を止めてもなお気管に挿管したままの場合、通常ならば異物感・違和感でひどく咳込んだり苦しんだりするものだそうですが、父の場合は何の訴えも示していないのが問題だと。
朝起きたらいつの間にか口から管を入れられていたら、普通の人ならまず払いのけようとか、抜いてくれと訴えるでしょう。
ところが、今日の父の場合、何の反応もないのがおかしいと。
とりあえず、午後3時から肺と脳のCTを撮ってみると言われたそうですが、朝早い時間の話だったため母もそこまでは病院にいられないので、明日ドクターに説明してもらう事をお願いして帰ってきたそうです。
この話を聞いた私に浮かんだ事、もしかすると最初の呼吸困難の段階での低酸素脳症。
ただ父の場合、急変してから個室に移されICUへ移されるまでに約半日、この時も苦しいと訴えてはいたようですが意識レベルがどうこうという事はなかったはずです。
そして、ICUに移されからおよそ6時間程度で、私に直接ドクターから催眠鎮静剤の使用と気管内挿管の許可を求める電話が来ました。
その間もかなり強い圧をかけて酸素マスクから酸素を送っていたはずなので、低酸素脳症に陥った可能性はないはず。
むろん、催眠鎮静剤を使っている間は24時間体制でモニターされ、管理されていましたから血中酸素濃度が下がればすぐに気管内の管へ送る酸素量を上げて対処したでしょう。
次に浮かんだのは、ほぼ1週間強制的に睡眠状態にされていた事による、認知症の発生?
いわゆる「ボケ」になってしまったんじゃないかと・・・;
認知症の発症原因は、いまだ完全に解明されたとは言えませんし、極度のストレスから発症する可能性もない訳ではない。
呼吸困難からくる極度の死への恐怖と闘った後ですから、まったくその可能性がないとも言い切れない部分がありますし、この場合は脳のCTを撮ってみても判断がつかないでしょう。
3つ目に浮かんだ事、それはこの催眠鎮静剤の影響がいまだ切れていないと言う事。
母が言うには、投与中止からかなりの時間が経ってるとドクターが言ってたそうですが、恐らくこの薬剤を使ったんだろうと思われる薬剤の添付文書の【集中治療における人工呼吸中の鎮静】での基本的注意に、「持続投与期間が24時間を超える場合は、覚醒が遅延することがあるので、十分な患者管理のできる状態で使用すること」との記載があります。
父の場合、24時間どころじゃなく、昨夜中止したとしても160時間以上も投与してたわけですから。
しかも、肝障害患者では「代謝・排泄が遅延し、作用が強く又は長くあらわれるおそれがある」とあり、体に入った薬が半分に減るのも健康な人に比べて2.5倍の時間がかかるとの結果が出ています。
つまり、普通なら投与を止めてから半日で意識がはっきりする所、父の場合は1日半は覚醒が遅延してもおかしくはないと言うことにもなります。
まあ、明日母が行って父の様子を見てみればはっきりするでしょうし、もし別の何らかの、例えば脳に異常が出たとなればドクターから説明があるでしょう。
もうダメと医師から告げられたに等しい状態から、ここまで回復してきた強靱な父です。
早いとこ意識を取り戻して、「何だこれはっ!、さっさと抜けっ!」と怒り狂って欲しいなと。
今度私達がお見舞に行く土曜日には、数日前の急変する直前と同じように冗談を言って笑えるような気がして、とにかく今はそうできる事を祈っています。
「朝食」
・自家製パン
・オニオンスープ
・ハムエッグ
「昼食」
・正油ワンタン麺
・おにぎり(明太子)
「夕食」
・カレーうどん大盛り(鶏肉、玉ねぎ、人参、じゃがいも、舞茸、長ネギ)
今日のBW:70.5kg
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プロフィール
HN:
管理人「か」
性別:
男性
趣味:
食べる事、旅行、飛行機関連
自己紹介:
某医療機関に勤務する、メタボな食いしん坊です。
もともと民間旅客機・軍用機を含む航空機全般が好きでしたが、2006年の4月から陸マイラー(時々空マイラー)生活を始めた、もっぱらJALマイラーです。
保有JALマイル
合算:76,381マイル
私の分:76,381マイル
奥さん分:0マイル
2021年2月15日現在
マイル使用歴
2009/1/15:40,000マイル
2010/1/11:50,000マイル
2011/1/15:70,000マイル
2011/11/1:60,000マイル
2012/9/10:40,000マイル
2015/1/17:100,000マイル
2017/1/12:10,000マイル
2018/4/23:30,000マイル
2018/10/20:50,000マイル
2019/10/31:15,000マイル
2019/12/15:35,000マイル
2020/6/18:20,000マイル
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